高橋アキ/ピアノリサイタル2023
プログラム
佐藤聰明:前奏曲(2023)[委嘱初演]
フランツ・ペーター・シューベルト:楽興の時 D.780(1823〜1828)
モートン・フェルドマン:トライアディック・メモリーズ(1981)
主催:カメラータ・トウキョウ
共催:株式会社 クリプトン
佐藤作品…ごくシンプルなふしが単音ないし2声くらいで弾かれ始め、和音が加わる。音がふと途切れて、またふしが始まる。作者の思いは深いものがありそうだと感じた。最後は曲の中で最も小さい音でふしがぽろぽろっと始まりかけて終わる。
シューベルト作品…曲が始まって、だいぶ前に、ピリス盤を繰り返し聴いていたのを思い出した。ころころと軽やかに弾かれるかの演奏とは対照的に、至って静かで、飾り気のない演奏。2曲目のふわっと広がる和音が印象的だった。5曲目はもう少し勢いがあってもと感じた。最後の曲は、まさしく「楽興の時」という趣だった。最初は数小節の長調/短調が入れ替わりつつ、和音の遷移のおもしろさを味わわせる。ロンドのように次々楽想は移り、最後に初めのフレーズが戻ってくる。絶えず動く繊細でシンプルなふしと、和声。奥行きのある音楽。アキさんがシューベルトにこだわる訳が少しわかったような気になった。
フェルドマン作品…全曲を通して音量がごく絞られ、限られた素材によって紡がれていく。テンポは意外に速めと感じた。素材が次々に交代していくので、初期のピアノ独奏曲に比べると、曲想の動きが大きい。どんどん変わっていく景色は、意外にも休憩前のシューベルトと近くさえ感じられる。しかし、同時に違和感も感じた。これらのフレーズはなぜ繰り返されるのだろう。
沈黙を抱き込むようにして音を綴るのがこの作家の流儀だと思っていたのだけれど、本作は音数が多く、むしろ沈黙を埋めていく方向性かと思う。一つの素材を何度か繰り返すことでセグメントが形成され、同様にして形作られたセグメントが積み重ねられていく。しかしながら、フレーズを繰り返す必然性が、よくわからない。今年(2023年)3月の井上郷子リサイタルで聴いた「パレドマリ」(1986)はフレーズが僅かずつ変化しながら反復されるような構成で、反復されることの必然がたしかに感じられた。翻って本作は、上述の通り、楽句が次々に遷移し、聴き手は変化のプロセスを玩味する余裕が与えられない。それゆえ、フレーズの繰り返しは単にフレーズの確保のためのように感じられてしまう。
終結部近く、細かい音符によるフレーズがまるで呪文のように唱えられ、拡大していく。この辺りまでくると、景色の変化を楽しめばよいのかと諦めるような気分にもなってくる。音が美しいし、余分な情趣を排した求道的な演奏も心地よい。だが、本作品自体は、ミニマルになろうとしてなりきれない、いささか宙ぶらりんな作との印象を抱いた。作家は当時未だ模索中であったということか。
「アンコールに、9月に亡くなった西村朗氏の曲をと思ったのだけれど、作品は大曲が多いので」とのことで、武満徹 作曲・秋山邦晴 作詞《さようなら》の、西村氏編曲によるピアノ独奏版が演奏された。(2023年10月25日 豊洲シビックセンターホール)
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