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『精神年齢』の定義

精神年齢、という言葉はよく耳にする。
高いだとか低いだとか言うけど、それが何を根拠にしているのかは自分でもいまいちよく分かっていない。この話題を真剣に考えている22歳の精神年齢が高くはなさそう、というのも自分の中の漠然としたイメージにすぎない。では、精神年齢とは何なのか。

まず、言語的な考察。

せいしん‐ねんれい【精神年齢】

〘名〙
(一般に)その人の年齢と比較してみた、精神の成熟度。

(引用:コトバンク)

何だか、言葉の説明の上で明確な定義はなさそう。

それでも言葉の意味に準ずるなら、精神年齢の基準に絶対的な物差しはなく、あくまでその人の年齢との相対評価ということになる。70歳の人の精神年齢が65歳であった場合、世間一般の高さと比較はされないため、精神年齢は低いことになる。反対に、赤ちゃんの精神年齢なんて基本赤ちゃん相当でしかないので、精神年齢が低いとはいえない訳だ。

では、その年齢相応の精神年齢とは何なのか?
この物差しは、その年齢では世間一般にどの程度成熟している事が求められるか、という説明なので、こんな夜一人で考えて結論を出せる規模を優に超えている。まあ、考えてみるけど。

一般に精神年齢が持ち出される状況というのは、その振る舞いが年齢不相応だった時だと思う。「大人びている」「子供じみている」「稚拙な」「若いのにしっかりしている」この手の言葉とセットで考えると状況が浮かびやすい。

自分は基本的に精神年齢が低いとされる行動をとることが多かった。自分の考えを正しいと思った時に、それに関しては退けたくないというのが常にあったので何かと人と、それもまあまあの確率で大人と対立することが多かった。それでも自分自身は至って冷静だったつもりなので、その時点で自分の精神年齢が低かったとは思っていなかった。

この行動に関して、今と15歳の自分とで比較した時、今の自分だと精神年齢が低い行動だと思う。が、15歳の自分のこの行動に関して今思うと、15歳ってその位の年齢だよな、という気はするので精神年齢が低いとはならない。

こうして一つ一つの行動に関して妥当な年齢を策定する、というのは手間もかかるし何より全て主観になる。

その人の妥当な精神年齢なんていうのは存在せず、要素に分解され、更に言えば状況によって変化する。
会社で気をはっている人が恋人や家族の前ではだらけきってしまう、という行動に関しては、行動自体が年齢相応でないため精神年齢が低いと言えるし、大人にもなってだらしない、という家族の視点ではやっぱり精神年齢は低いことになる。しかし反対に、会社とプライベートをしっかり切り替えられている、頑張ることだけでなく休息をとる大切さも理解している、という視点でみれば精神年齢が高いと言える。

ここで思ったのが、精神年齢の照準を定める振る舞いは、社会におけるその年齢の人の役割に対応しがちなのではないか、ということだ。
後輩、先輩、新卒、上司、恋人、結婚適齢期、旦那、妻、親、祖父母というように、ロールが年齢ごとに当てはめられ、その基準でもって精神年齢を定められがちである。

22~24歳くらいは一般に新卒であるため、大人でありながらフレッシュさやアクティブさ等を持ち合わせている。
28~35辺りになると結婚を意識する年齢になり、段々と独身で遊んでいるとイタい、と思われ始める。
40を超えると段々と上司になる人が増え、若者に指導する力やリーダーシップを当然のように求められ始める。経験がないことが恥ずかしいことになるし、あまり自分の意見に意固地でも「老害」と呼ばれ出す。
50を過ぎる頃には、老化の自認が肝要になる。若い時のようなアクティブさは痛々しく映り、若作りなんて言葉も流石に許容の範疇を超えてしまう。

ここまで書いて思うのが、中々に余計なお世話だよなということだ。
社会の変容が著しい時代で、最早年齢相応なんて言葉がナンセンスだと感じる。各個人の自己実現は、他人に迷惑をかけていない場合は否定される必要がなく、社会の眼差しが立ち入る必要すらない。

精神年齢が社会に定義される以上、その人の精神年齢は国や環境を移せば全く別の評価をされることになる。そう考えると、あまり精神年齢のいう概念に腐心する必要はないな、と思い至った。

また、年上に対して精神年齢が高い、と感じたことがない。何歳だとどの程度成熟しているか、なんてなってみないと分からないので、大人っぽいと思った所でその年齢以上の落ち着きだな、とは思わない、と気づいた。年上に子供っぽいなと思う時は掃いて捨てるほどある。

精神年齢という物差しは、時折自分の足取りを迷わせる。
それでも、何歳だったらやれてたのになんて内省して足踏みする程老成を求められる齢でもないんじゃないかと思っている。
社会にその物差しがあることは自覚してこの価値観を他人に押しつける、なんて傲慢は控えつつも、精神年齢という言葉の先には、真に豊かな人生がある可能性を否定しないでいたいと思う。

子供じみた信念をもつ大人に救われる人だっているんだ、きっと。

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