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死んでいない者について

本棚には未読の「茄子の輝き」がたまに私を見ているような気がするけどもちろん気のせい。ただ滝口悠生という作家が気になってならない時もあって、茄子の輝きに手を伸ばす。しかし、本を開けない。その代わりに、違う本を開けて読む。そんなことが何回もあったが、滝口さんには少し申し訳ない気持ちがある。
先週、妻と息子と一緒に図書館に行ったら佐伯一美という作家の本を探してみた。具体的に「ア・ルース・ボーイ」を借りたかったがなくて本棚の間にウロウロ歩いては一冊を取り出したりした。その時に滝口悠生の「死んでいない者」を見つけて、とりあえず借りてみた。
この滝口悠生の長編(144ページ)は彼の芥川賞受賞作で、「茄子の輝き」は受賞後の短編集だそうである。舞台は埼玉県の家で行われるお通夜。登場人物が次々と出てきて、どれに注目すればいいか分からないまま、自分があたかも亡くなった故人のようにお通夜の風景を天井の隅から見つめる。
主人公といった者はなくても、読み続けると自分にとっての主人公が見つけられる、という奇妙なことが起こる。私の場合はダニエルだった。
ダニエルはその家族の娘と結婚し、1人の3歳の秀斗という息子がいる32歳のアメリカ人。彼は長い間日本に住んでいるらしくて、他の親戚と一緒に銭湯に行くとこんな場面が出てくる。

「お父さん!という秀斗の声が響き、ダニエルが洗い場から、はい!と応えた。
彼が日本語に堪能であることを知らないほかの客たちは、その声の響きを英語風に聞いたのだったが、続けて彼は、しゅうちゃん、体、ちゃんと洗えるかな!とやはり壁の上の隙間めがけて言った。
それはいくら意識的なところもあって、こういう公共の場では自分が日本語を理解できるということを早めに、さりげなく、周囲に知らしめておいた方がいい。黙っていて日本語がわからないと思われると、自分に対する思わぬ分析や所感を発せられ、向こうにもこちらにも悪意はないのに、後で気まずいことになったりする。多かれ少なかれ、海外で暮らす者ならば共感しうる心得ではあったが、ダニエルは時々遭遇するあのいたたまれない感じを極度に恐れていた。何か嫌な経験があるわけではなく、彼はとにかくいたたまれなさが怖いのだった。」

これを興味深く読んだ日本に住んでいる外国人の私だったが、今まで読んできた、観てきた、聴いてきたもので初めて日本に住んでいる外国人の気持ち(とりわけそのいたたまれなさ)を理解し、何の偏見も表さずに書いてくださったように感じた。私はアメリカ人ではないしスペイン人とアメリカ人はあまり似ていないと思うが、やはり日本に長い間(とはいえ私の場合は2年半だけで長い間に属さないかもしれないが)住んで日本語が喋れるとこのようなちょっと面映い時が訪れる。しかもそれは何回もで慣れてくる。もちろんこれは小説に書いてあるとおり全く嫌なことではないし周りにいる日本人のせいでも決してない。ただ、自分が日本語が分かるよ、たまたまここに来てしまった海外の観光客じゃないよ、と証明するためにやってしまう。

ダニエル以外にもちろん面白い登場人物がいて話を緩やかに明け方に連れていく。知花と美之という兄妹がその2人で彼らの曖昧な関係は綺麗に描かれており、少し小川洋子の小説によく出てくる兄妹の関係にも似ていると今気づいた。

終わりとして、この本を読んだおかげでまた本をゆっくりと読むことができたと思う。おそらくそれは読む事前に平野啓一郎の「小説の読み方」を読んだからだろうが、このディテールに富んだ小説が持つ生と死のメッセージと滝口悠生の書き方もその理由の二つだと思う。機会があれば是非手に入れて読んでみてください。

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