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 『小説ですわよ』第4話

※↑の続きです。

 信号が青に変わるのを待ちながら、イチコがタブレットの画面をスクロールさせる。簡潔な文章と何枚かの写真が表示されていた。
「午前中、探偵社に依頼主が来て、その内容をじいやがまとめてくれたんだ。1件目は、家から逃げたインコの捜索だね」
「人探しならわかりますけど、ペット探しもやるんですか?」
「5000円から1万円くらいでね」
「えっ、安っ」
「飼い主からしたら助かるだろうし、探偵社としても顔を売るのが目的だから儲けは度外視なんだよ」
 信号が青に変わり、ハイエースが発信する。
「姐さんの占いで、インコの居場所は見当がついてる。逃げられるまえに急ごう」
「えっ、占いってインチ……気休め程度なんじゃ……」
「大抵の占い師はね。でも必要な情報さえそろっていれば、姐さんの占いは当たる」
「すごいですね。ひょっとして魔法使い?」
「ん~、そんなところかな……うん」
 奥歯に物が挟まったような返答だったので、舞はそこで質問を止めた。なんでもかんでも掘り下げたところで、余計わからないことが増えるだろうという予感があった。
 そこでカーナビが音を鳴らし、赤い丸を表示させる。
「目標の生体反応を検知。案内を開始します。午後も張り切っていきましょう! なにか音楽でも流しましょうか?」
「よろしこ。アガるのを頼むよ」
 細川たかしメドレーが流れた。

 インコがいると目される場所は、雑木林だった。私有地だったが立ち入り許可を事前に得ているとのことで(イチコの目の泳ぎ方からして怪しいが)、木々をかきわけながらインコを探した。
 数分も経たないうちに、舞はインコを発見した。隠れているというより、木の枝にとまって休んでいるようだ。怪我をしている様子もない。舞はゆっくりと近づき、インコへ手を伸ばす。しかしインコは突如羽をバタつかせし、舞の鼻を噛んだ上、髪にフンをひっかけて逃げてしまった。
 その後、イチコがリズミカルな口笛でインコを誘導し、あっさり捕まえた。インコはイチコをよほど気に入ったのか、肩の上に乗って下半身をくねくねさせて“求愛行動”をとっていた。その後、インコを送り主に届け、1件目は終了となった。
「水原さん。髪、大丈夫?」
「はい、まだ少しベタベタしますけど……なんか、すみません」
「『人間、間違いは100回くらい起こすもんだから、テヘペロして生きろ』って、ハム太郎の仲間も言ってた。ほら、大昔の中国の人」
「こうしくんも、孔子も、そんなこと言ってましたっけ……?」
「ハハーッ、ハッ!」

 2件目の依頼は『妻の浮気調査』だった。依頼主の夫によれば、昼間に誰かと会っているという。イチコと舞は依頼主の家の近くに張りこんだ。こんなピンクのハイエースでは目立たないかと心配だったが、イチコ曰く「停車している間は感知されにくい」とのことだった。そういう魔法的なものがハイエースに施されているらしい。
 しばらくすると夫の説明通り、妻が家から出てきた。妻は近所のバス停からバスに乗って3キロほど離れた高級住宅地で降車した。その足で向かったのは、要塞のように広大で威圧的なコンクリート壁の家であった。外からは中の様子がうかがえないので、ドローンを飛ばすことになった。
 イチコは「上下左右の感覚がよくわからなくて酔う」とのことで、舞がタブレットで操作することとなった。家は小窓ばかりな上、中が暗くて様子はやはりわからない。ようやく光が漏れる窓を見つけたので、近づいてカメラをズームにする。タブレットを通じて映る光景に、舞は目を見開いた。
「うわっ……」
 体育館ほどのホールのような部屋で、30~40代の男女たちが一糸まとわぬ姿で歓談していた。皆、片手に濃い緑色の液体が入ったグラスを持ち、ワインを味わうようにグルグルと回しながら飲んでいる。
 しばらくすると男女たちの足元がおぼつかなくなり、うつろな目をして、そこら中でおっぱじめた・・・・・・。依頼主の妻も、男2人、女1人と絡まりあって、お楽しみだ。
「水原さん、シャッター、シャッター!」
「は、はい!」
 舞はタブレットのシャッターボタンを連打する。次々に痴態の写真が保存されていく。
「やったね。証拠になりそうだよ。あ、シャッターはまだ連打ね」
 舞は探偵らしい仕事ができたのが嬉しく、連打のスピードを上げる。ボタンを押す精度が下がり、違うボタンを押してしまったが、特に反応はないので無視した。
「いやあ、主婦もバカな大学生みたいに乱交したがるんですねえ」
「いやあ、主婦もバカな大学生みたいに乱交したがるんですねえ」
 なぜか舞の声が残響した。交わっていた男女たちが、青ざめた顔で一斉にドローンのほうへ視線を向ける。
「様子が変ですね」
「様子が変ですね」
 またも残響する。イチコがハッと舞からタブレットを引ったくり、ボタンを押す。
「まずい! こっちのマイクがオンになって拡声されてる!」
「ええっ!?」
 残響はドローンから発した音声だったのだ。男女たちは蜘蛛の子を散らしたように、ホールのような部屋から飛び出していく。イチコはハイエースを急発進させ、その場から逃走した。
「イチコさん。なんか……すみません」
「いや、お手柄だよ。証拠はバッチリ押さえたんだから。失敗より成功したことを喜んで、次に活かそう。明日はもっと楽しくなるね、舞太郎」
「へけっ」
「ハハハーッ!」

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「本日、午後3時ごろ、ちんたま市裏筋区の住宅街で、数十人の男女が全裸で走っているとの通報があり、ちんたま市警察によってわいせつ物陳列罪の容疑で逮捕されました。男女はいずれも『悪魔合体に失敗した』などと意味不明な供述を繰り返しているとのことですが、アルコールや薬物の反応は出ていないとのことです。警察は今年になって市内で急増している、突発的な奇行による事件との関連性を考慮しつつ、調査を進めていくとのことです」     
  (FMちんたまのニュース番組より)
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 下校途中であろう小学生たちとすれ違いながら、ハイエースが事務所へ向かって走行する。時刻は15:30。すでに空が赤みがかっている。車内は暖房が効いているが、ヒンヤリとした空気が足元に流れこみ、温度を中和する。
「ちょっと早いけど今日は事務所に戻って、日報をまとめて終わりかな。あ、17:00の退勤時間までは事務所でダラダラしてて。おつかれさま」
「はい、どうもです……」
 舞は背もたれに身を預ける。頼んでもないのに脳内で今日の失態がリフレインしてくるので首をブルブルと横に振って、かき消した。その様子をイチコは間違いなく気づいているだろうが、黙々と運転を続けた。

 と、ホルダーに固定していたイチコのスマホが着信を知らせる。「カーミラ」なる人物からであった。電話の主は、イチコの反応でわかった。
「ああ、姐さん? こっちは終わったよ。水原さんが頑張ってくれてさ」
「悪いけど、急ぎで1件追加よ」
「返送者?」
「ポジティブ野郎絡みの可能性が高いわ」
「……水原さんと一緒にいるんだけどな」
「急がなければ被害が広がる」
「わかったよ」
 通話を切り、イチコが真剣モードの低い声になる。
「ごめん。聞こえてた通り、もう1件付き合ってもらう」
 舞は緊張をごまかして、関係ない話題を投げた。
「カーミラって、社長のことなんですね」
「ん? ああ、上羅かみら綾子をもじって、カーミラ。古い小説に出てくる女吸血鬼の名前なんだって」
「占いで、血ではなく金を吸う吸血鬼ってことですか?」
「ハハーッ、そゆこと!」

 ハイエースはちんたま市から離れ、南にある皮剥市へ逆走した。稼働しているかわからない小さな工場や、錆びた屋根の倉庫が集中した一帯だ。
「標的を検知。500メートル以内にいますが、高速で移動を繰り返しているため、正確な位置は特定不能です。申し訳ございません。ご武運を」
「ありがと。あとは任せて」
 イチコは工場と道路を隔てるコンクリート塀の近くで、ハイエースを停めて降りた。そして後部トランクを開けて物色する。
「まずは、これと……」
 イチコが取り出したのは缶詰だった。金色で針金が何重にも巻かれ、Tという黒いロゴがプリントされている。続けて、長い棒状のものを奥から引っ張り出した。
「無難に、これでいくか」
 棒は串団子のように8個の球体が縦に連なり、先端がとがっていた。イチコは舞に、降りるよう親指で促す。
「この近くに、返送者が潜伏してる。戦闘力が高くて、しかも素早い。弱らせないと轢くのは無理だ」
「ど、どうするんですか?」
「とりあえず私がボコる。運転免許は持ってるよね?」
「AT限定ですけど」
「オッケー。運転席に移って」
「……私が轢くんですね」
「頼む。合図するから、声が聞こえるように窓は開けといて」
 舞は指示に従った。車外のイチコは、缶詰を開ける。何も入ってないようだが、イチコは中の空気を鼻で吸い込んだ。すると――
「フッ! くっ、ウウ……!」
 イチコの頭がビクッと後ろへのけ反る。元に戻ると、その瞳が緑色に変わっていた。めまいがするのか、額を押さえている。
「イチコさん?」
「テ、テスラ缶だよ。身体能力と感度を大幅に向上させる効果がある」
「あれってインチキじゃないんですか?」
 舞はネットでテスラ缶の情報を見たことがあった。健康にいいとか、癌にいいとか。まるで科学根拠のない代物だったが、騙されて自作する者までいるらしい。
「姐さんのは違う。これで敵が近づいてきたらわかる。あとは……」
 イチコが棒の柄についている2つのスイッチのうち、ピンクのほうを押した。8個の球体がウネウネといやらしく不規則に動き始める。
「あ、こっちはオマケのお楽しみ機能だ。じゃあ、こっちか」
 イチコが運転席の舞に向かって、はにかんだ。

 しかしイチコがもうひとつのスイッチを押すことはなく、その姿が一瞬で消える。直後、爆発に似た轟音。舞が気づいたときには、イチコがコンクリート壁にヒビを作って、めりこんでいた。そしてイチコの前には、白いバンダナをつけた男が立っている。
「邪魔をするな。こっちの世界でも、ケジメをつけなきゃいけない連中がいるんだ」
 男がイチコへ拳を振り上げる。舞は反射的に、合図を待たずアクセルを踏もうと足を動かす。
 瞬間、再びの轟音に舞の足が止まる。反対のコンクリート壁に、今度は男がめりこんでいた。
「イチチ……明日は筋肉痛だなあ」
 イチコは何事もなかったかのように、服についた埃を振り払う。男も平然として壁から離れて、拳を構えた。
「さあ……始めようか!」
 イチコは肉食動物のように歯茎を剥き出す。手に持った棒がウネウネと動き始めた。

 イチコと男のあいだを風が吹き抜け、ふたりの姿が消える。轟音が二度響いたあと、ふたりが姿を現す。イチコが例の棒で男のどてっ腹を突いていた。直後、またもふたりは消える。次に姿を現したとき、今度は男がイチコの顔面にパンチを叩きつけていた。三度消え、また現れ、四度、五度……ふたりは突かれ殴られを幾度となく繰り返す。その度に、衝撃波がハイエースのフロントガラスをビリビリと鳴らした。舞はようやく、ふたりが漫画のように超高速で格闘戦を繰り広げているのだと理解した。
 とにかく、このままでは男を轢くことはできない。舞は何か方法はないかと、タブレットに記録された男の情報を漁る。

  小原 正憲。32歳。
  無職。中古車販売店の元店員。
  住所不定。皮剥市内の廃工場を転々としている模様。
  2015年6月、異世界へ転生。
  2022年8月、こちら側へ返送。
  同年9月、前職の上司と同僚 計3名を殺害。怨恨と見られる。
  殺害方法と超常能力の詳細は不明。
  被害者の遺体は、いずれも顔面が吹き飛ばされていた。
  “軍団”の尾行を感知し、時速200km以上の速度で逃走。
  身体を強化する能力である可能性が高い。

(ダメだ。これじゃ、なにもわからない!)
 舞がイチコたちに視線を戻す。イチコが棒立ちになり、四方八方から現れえる男――小原に殴られ続けていた。
「ただの人間にしてはやるな。なにかで強化をしていようだが、時間制限があるようだな。動きがガタ落ちだぞ。付け焼刃では私には勝てん」
 殴打を続けながら小原が嘲笑の笑みを浮かべる。イチコも殴られつつ、ヘラヘラと笑って見せる。
「さぞかし、ご立派な能力なんだろうなあ」
「転生の際、神より授かった力。STR筋力とDEX敏捷性を最大限界値の状態で新しい人生をスタートすることができた!」
「ハハッ、返送されたってことは、その世界には不要な能力だったわけだ」
「貴様っ!」
 小原のワンツーパンチを食らい、イチコがまたもコンクリート壁に叩きつけられて座りこむ。その口から、大量の血が吐き出された。小原がゆっくり歩いてイチコへ迫る。

(イチコさんの合図はまだない。だけどこのままじゃ!)
 舞はアクセル全開でハイエースを発進させる。小原までの距離は5メートルほど。よけられてもいい。小原の気を逸らせさえすれば。
 その思惑通り、小原は突っ込んできたハイエースを跳躍してかわした。

 舞は急ブレーキをかけてイチコの目の前に乗りつけ、後部座席を開けて、
「イチコさん、乗って!」
「み、水原……さん……逃げ……ろ」
「はい、だから一緒に!」
 イチコは立ち上がろうとするが、すぐに座りこんでしまう。壁に血の跡がべったりと付いた。舞がイチコを車に乗せようと、シートベルトを外す――
同時にフロントガラスが粉々に砕け散り、ハイエースが上下に振動した。
「!?」
「聞いてた通り、固いな」
 落下してきた小原が、その勢いのままパンチでガラスを破壊したのだ。
「だが私なら壊せる。祝福を受けし者ならばな」
 舞は小原に首をつかまれ、吹きさらしのフロントから車外へ放り投げられた。小原も道路へ降り、舞の胸元を踏んで押さえつける。
「このっ! 離せクソ、クーパー靭帯が切れるだろうが!」
 舞が小原のスネを殴りつけるが、まるで鉄のような感触だった。逆に拳に痛みが走る。
「邪魔をするな、無能。大人しくしていれば生かしてやる」
「なに……?」
「私もかつては貴様と同じだった。むしろ憐みさえ覚える」

 小原はつらつらと身の上を語り始めた(聞いてもないのに)。
 仕事が失敗続きで、上司や同僚からの罵倒によってノイローゼのような状態に陥り、フラフラと歩いていたところを車に轢かれ、異世界に転生したという。聞く限り、大瓦が転生した世界とは異なり、魔王なる存在はいなかった。生まれ変わった小原は、驚異的な身体能力を駆使し、集った仲間とパーティを組んで巨大地下迷宮ダンジョンの攻略を成し遂げた。だが小原はダンジョンの宝を独占しようとしたため、パーティから追放された。
 そこで小原は似たような“はぐれ者”たちと結託し、元仲間を皆殺しにして復讐を成し遂げた。その後も能力を振りかざして暴れ回っていたが、事態を重く見た軍に捕まり、古代遺跡に封印された。
 気がつくと小原はこの世界に返送されていた。異世界に転生してから7年が経過しており、小原は行方不明者から死亡者扱いになっていた。元々身寄りのない小原は、誰も頼ることができず、転生の話を信じてもらえず、死者として皮剥市の廃工場を棲み処にして、盗みなどを繰り返して生きていた。その生活にも限界を感じ、前職の中古車販売店を頼るも、やはりバカにされるだけだった。怒りの頂点に達した小原は、かつての上司と同僚をその場で殴り殺した。

「そんなとき、貴様らが私を嗅ぎ回り始めたというわけだ」
「聞いても無駄だと思うけど……この世界は窮屈じゃないの?」
「思うままに変え、君臨すればいい。私にはそれができる」
「お前に変えられた世界なんて、絶対ロクなもんじゃない」
「それは今も同じだろう? 私を返送したところで、貴様の目に映る世界は何も変わりはしない。無能ゆえに蔑まれ、疎まれ、何も夢を掴むことさえできない。そもそも掴みたい夢さえ考えつかない。貴様を踏みつける者が、ただ変わるのみ。そう、我々・・だ」
「……我々? よくわからないけど、だから見逃せって?」
「別に頼んではない。どの道、貴様らには何もできない。指をくわえて見ていれば寿命が延びるだけのこと。惨めなまま生きたくないのなら、殺してやってもいいぞ」
 舞には迫られた選択を選べなかった。この男の言う通り、返送者を轢いたところで世界は変わらない。怪事件が減り、治安はよくなるかもしれないが、マイナスがゼロへ戻るに過ぎない。今寝転がっているアスファルトのように冷たく、冬の夕空に滲む闇のように暗い世界が続いていく。
 小原はハイエースへきびすを返し、ガンガンと殴りつけ始める。
「無能ども、今日は歩きで帰れ。それと明日からは新しい仕事を探すことだな。こんなものは、私の世界にいらない」

 舞は仰向けに寝転がったまま、イチコを見る。ピクリとも動く気配はない。死んでしまったのだろうか。今日一日、彼女と過ごした時間は楽しかった。大瓦にのど輪を食らわせてやったときは気持ちよかった。Jリーグカレーの味と、細川たかしの美声が脳裏に焼き付いている。イチコの独特な笑い声も。明日からは、もう感じることはできないのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、舞はひとつの結論に達した。
(別に世界は変わらなくたっていい。期待なんてしてない)
 舞の全身に力がみなぎってくる。身をひるがえして立ち上がり、
(私が欲しいのは、今、この刹那! 得られる快感……!)
 そして、ハイエースを殴り続ける小原の背中を睨み、
(明日には消えゆく快感であろうと構わない。日々を繰り返して、私は冷たい暗闇の世界を生きていく。だから、今、私は!)
 舞は小原めがけて一直線にダッシュする。
(ムカつく野郎のキンタマを蹴り上げ、一矢報いて気持ちよくなるッ!)
 射程距離に入った。左足を軸に、右足を振り上げる。
「小原ァ!」
「……?」
「水原と小原で、ちょっと被んのが気持ち悪いんだこの野郎!」
 渾身のフリーキックは、小原のゴールデンボールを―― 
「あっ」
 ――蹴り抜けない。小原の腿の裏をペチッと叩いただけだった。
(私って、いつもこう!)
 小学生のとき体育のサッカーでシュートをしくじり、空中で一回転して着地し、あだ名がしばらく「内村」になったことを思い出した。叫んでその記憶を消したかった。
 いや、それどころではない。小原が拳を振り上げる。時間の感覚が引き延ばされて相撲の精霊が現れることを祈ったが……応えてはくれなかった。
(終わった!)

 だが舞は自分の顔面が砕ける音ではなく、ヒュッとなにがか空気を切り裂く音を聞いた。ロープ状の物体が小原の腕に巻きつき、その動きを止めている。ロープの出所を目で追うと……
「また助けられたね、水原さん。おかげで回復する時間ができた」
「イチコさん!?」
 イチコが前のめりに立ち、ロープを握っている。目を凝らすと、ロープに見えたものは例の棒が変形したものだ。8個の玉が分離し、その間をチェーンで繋いだ8節のムチとなっている。
 小原が逃れようと抵抗するが、ムチを振りほどくどころか、力が抜けてその場に片膝をつく。
「ば、バカな、なぜ……」
「ポォォォォォォォォォウ!」
 イチコが渾身の力で鞭を振り上げ、一気におろす。鞭に捕らわれた小原は宙を舞い、地面へ叩きつけられた。
「水原さん!」
「あ、はい!」
 舞はハイエースに乗り込み、エンジンをかける。車体はボコボコに殴られたが無事に動いた。アクセル全開で突撃する。
「小原ァ、私の“今”のために消えろぉぉぉッ!!」
「う、うわあああっ、くるな! くるなぁぁぁっ!!」
 小原は夜闇の中、季節外れの花火となって異世界へ消えていった。

 舞はハイエースをバックさせ、イチコを助手席に乗せる。
「イチコさん、よかった。死んじゃったのかと」
「テスラ缶のおかげで、回復能力も強化されてたんだ。あれがなかったら危なかったよ」
 イチコは服こそボロボロだが、その身体には傷ひとつない。緑に変化した瞳は元の黒に戻っている。
「小原が転生した話を始めたときには、もう意識が戻ってた」
「ひ、ひどい、すぐに助けてくださいよ!」
「ごめんごめん。小原から情報を引き出したかったんだ」
「能力は、聞くまでもなかったような気がしますけど」
「いや、知りたいのは小原の協力者だ」
「そういえば……確か、我々って言ってましたね」
「おそらく小原をそそのかした者がいる。前からソイツを追っているんだけど尻尾を掴ませてくれなくって。小原が棲み処にしてた廃工場を探れば、手がかりが得られるかもしれない」
 と、消防車のサイレンが聞こえてくる。工場地帯の一角から火があがっていた。
「まさか……先手を打たれたのか?」
「証拠を消されちゃったんでしょうか!?」
「かもしれない。とにかく工場地帯の調査は、探偵社に任せる。私たちは事務所へ戻ろう」
「戻れますかね、この車。絶対、警察に捕まりますよ」
 フロントは凸凹だらけ、ルーフは折れ曲がり、フロントガラスは跡形もない。走れるのが奇跡だ。
「人通りの少ない道を行こう。あとは賭けだ」
 舞は冷たい夜風を真正面から受け、ハイエースを発進させる。さっきはあんなことを言ったが、警察に見つかったらそのときはそのとき考えようと思っていた。明日など知ったことじゃない。今、この瞬間、冷たい夜を駆け抜けられるのなら、それだけでいい。刹那を生きてさえいれば、いつか――

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「この神汁をひと口飲めば、その瞬間から貴方の人生は煌くエメラルドグリーン! さあ僕とポジティブに! アクティブに! 生きましょう! ああ~、幸せの音ォ~~~」

(神汁騎士こと神沼 蓮プロデュースの健康飲料食品CMより)
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 事務所に戻り、イチコは午後の案件の報告書を、舞は日報をまとめた。日報といっても名前やアルバイト管理番号などの必要情報を埋めて、一日のスケジュールを箇条書きにするだけだ。申し送り事項については気の利いた挨拶でも書ければよかったが、余計なことはすまいと考え「特になし」とした。
 明日から勤怠管理と車内連絡はスマホアプリを使うとのことだったので、岸田にインストール作業をしてもらった。一般に出回っているアプリではないらしく、舞はそんなものをスマホに入れることが少し不安だった。作業が終わったところに、綾子が社長室から出てきた。
「おつかれさま。やってみてどうだった?」
「お腹すいた~」
「イチコに聞いてるんじゃないの。水原さんよ」
「私は……楽しかったです」
「危険なことも、たくさんあったのに?」
「普通の人なら、危ないからやめようって考えるかもしれませんけど」
「あら、自分が特別だって自覚はあるのね」
「逆です。普通の人よりできることが少ないから、諦めて何も考えないようにしてるんです。考えたって無駄だから」
「誰よりも考えに考えることで、他の人を上回ることだってあるわよ?」
「それができるのは普通かそれ以上の人です」
 綾子は目を丸くした。が、すぐに色気のある微笑みを浮かべる。
「ふふ、面白い子ね。明日からも、よろしくお願いするわ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 舞は退勤し、白い息を吐きながら裏筋駅へと歩いて向かう。駅までイチコが送ってくれることになった。といっても見知った場所だし、事務所からは徒歩5分もかからない距離だ。
「ひとりで大丈夫だったのに」
「最近は治安が悪いから念のためね。あと大瓦のところのヤクザが報復に来たら大変でしょ?」
「あ……」
 舞の背中を、寒さとは違う凍った感覚が走った。すっかり忘れていたが、ふたりはヤクザと敵対状態にある。青ざめた舞に、イチコは肩を上下させてケタケタ笑う。
「ごめん、冗談だよ。“軍団”がヤクザたちの記憶を消したから」
「よかった……そんなことできる人がいるんですね。その“軍団”っていうのは探偵社の社員さんですか?」
「社員でもバイトでもないよ。姐さんが飼ってる無職の連中」
「飼ってるって……」
「普段は草野球やってるか、事務所の3階を占拠して一日中寝てるどうしようもないヤツらなんだけど、情報収集や裏工作なんかは優秀なんだ」
 昼間、イチコが暗に3階へ行くなと言ったのは、軍団とやらが寝ていたからだったのだろうか。特別な秘密はなさそうで、舞はガッカリした。
「そういうことだから、大瓦の手下と鉢合わせしても向こうは気づきもしないはず。嘘だと思うなら、今から鰻屋に行ってみる?」
「信じますから、勘弁してください……」
 そんなことを話していると、すぐに裏筋うらすじ駅へ着いた。
「じゃ、水原さん。また明日」
「はい。失礼します」
 事務所へ戻るイチコを見送り、舞は改札をくぐった。

 裏筋駅から1駅隣の南裏筋駅。そこから徒歩5分のマンションに、舞の実家はある。ゲーム会社時代は都内のアパートに住んでいたが、仕事を辞めて1年も経たずに引き払っていた。その際、違約金を母親に工面してもらったこともあり、舞は療養をできるだけ早く終わらせて働く必要があった。
(時給1500円かあ……)
 都内ならともかく、ちんたま市内のバイトならば探偵社の給料は相当恵まれているほうだ。母への借金を返すのには時間がかかるだろうが、他の仕事には到底向いてないであろう舞にもできる。危険を伴うから、本来もっと多くていいという高望みは捨てるべきだろう。なにより……
(小原をぶっ飛ばした感触は最高だったなあ)
 今までに味わったことのない爽快感だった。むしろ時給1500円も貰っていいのかとさえ思える。
「轢き殺すぞ、女ァ!」
 舞の後方から、自転車に乗った老人がフラフラと歩道に現れ、ベルを鳴らした。10年以上前から駅前によく出没するクソジジイだ。おそらく他人に罵声を浴びせることしか生きる楽しみがないのだろう。以前の舞なら心の中で中指を立てていたが、今日は違った。
(お前が返送者なら轢いてたところだぜ、ジジイ)
 舞は仏の笑顔で、老人に道を譲った。

「ただいま~」
「おかえり~。早かったね」
 舞は実家マンションのドアを開けると、廊下の向こうから母の声が出迎えてくれた。キッチンに顔を出すと、母がコップで水かなにかを飲み干し、舞を見る。
「バイト、どう?」
「うん、まあまあ」
「いいことあった?」
「う~ん、ちょっと」
「本当にちょっとだけぇ?」
「いや、はは……まあ、楽しかった」
「いいことあったんだね。神様は一生懸命頑張ってる人を見てるから」
 母のこういった言葉遣いが自己啓発セミナーやカルト宗教のようで、舞は昔から苦手だった。どんなに舞がつらい想いをしても、耐えろだの正しい行いを神様が見ているだのと言って助けてくれなかった。父が捕まったときも……だが今日は初めてイラッとすることなく流すことができた。
「晩御飯は?」
「餃子」
「やった!」
 舞は明日のことを考えず、ニンニク入りの餃子をたらふく食べ、あたたかい風呂に入り、つまらないバラエティ番組をボーッと見てから自室のベッドに潜る。
「明日からも轢きまくるぞ♪」
 胸の高鳴りを抑え、舞は布団を頭までかぶった。

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  ちんたま市を大麻特区に!
        清水沢 あすか

  政界にグラウンドコブラツイスト! ダァイ!
        檜木 のぶし

  ヤクザとぼったくり潰す!
        kenshi

  みなさんの人生をクリエイティブにコーディネート
        神沼 蓮
 
(南裏筋駅前 掲示場のちんたま市長選・選挙ポスターより)
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つづく。