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7回目:本場を一旦忘れて

緊急事態宣言がやっと終わって、次いつ来るか誰も分からない。幸いに理系人は元気で、無事2回ワクチンも受けた。ワクチンを信用するかどうか、人それぞれの観点があるが、理系人としては、メリットがデメリットよりずっと大きく、接種するのが今のところ一番合理的な判断だと思う。まあ、その話はさておいて、過去の一年半の間、外食はだいぶ減った。「理系人の太極拳」の次を書く前に、ちょっと外食の話をする。

日本の中華料理店の麻婆豆腐、おそらく誰も一度は食べたことある。「とりあえずビール」みたいな感じで、中華に入ったら「とりあえず麻婆豆腐」。その理由は簡単、人気があるから。何千キロ離れている中国の四川省で人気のある「麻婆豆腐」は、日本でも人気があること、実にとても興味深い。だって、日本より四川に近い中国の上海とかでは、麻婆豆腐という料理は、あまり食べる人がいないのだ。実際四川とその近隣周辺のいくつかの省以外のところでは、「麻婆豆腐」という四川料理の名前は聞いたことがある程度で、ほんとに食べた事がある人は、それほどいない。なぜ、異国の日本で花が咲いたのか?

そこに、料理の鉄人陳さんの出番になる。異国で花が咲いたのではなく、陳さんが花を咲かせたのだ。湿気の重い四川盆地では、古来独自の食文化がある。原産南米の唐辛子が中国に伝来されてから、四川の料理に愛用される。その理由は定説がないが、私は一番有力だと思うのは、やはり四川盆地が唐辛子の原産国南米の気候に近いから、そのあたり唐辛子を育てやすいから。

私の持論の一つは、古代人は生きていくのに、精一杯なのだ。だから、現代人みたいに、好き嫌いでこれを食べる、あれを食べない余裕がなかった。ということで、一番育てやすい農作物を食べる。それは生き延びるコツだった。南米人がトウモロコシが好きだというよりは、それが一番育てやすいからだと思う。日本の捕鯨文化も似たような感じだと思う。鯨が美味しいから鯨を捕まえて食べるという発想は、現代人の発想だ。古代では手に入れるタンパク質の源としては、海に囲まれた島国の人に残された限りある選択肢の一つだったから。残りの問題は、どう美味しく調理するだけ。

その同じ考えで、唐辛子ならいっぱい作れるから、残りはどう調理するかだけ。幸いに、唐辛子自体が栄養が豊富で、保存もしやすいので(虫除けそのもの)、そのおかげで、どんな四川料理にも見かけるようになった。しかし、淡白な味が好んだ何十年前の日本人にとって、唐辛子がたくさん使われる四川料理はとても受け入れ難かっただろう。そのため、料理の鉄人が日本人の口に合わせて改良を重ねて、麻婆豆腐をこの四川と4時間もの飛行機で離れた土地に普及させた。めでたしめでたし。

本場四川の人が、日本の麻婆豆腐を食べると、もしかしたら、「これ違うわ」と思ったりするかもしれない。日本生まれ日本育ちの人なら、「麻婆豆腐」というのは、四川のものどうのこうのではなく、日本の普通の中華料理店で出されたものが、「本物」だと思う。もしくは、「本物」かどうか、もう重要ではない、美味しければいいのだ。

ここで、話を太極拳に戻す。

太極拳の起源について、諸説あり。武当山か、陳家溝か、もしくはさらに古いどこか。私は、その起源には特に興味がない。だってコロナの起源を追うことは、再発防止やワクチンの開発などに役に立つかもしれないが、太極拳の起源を追うのは、太極拳の上達には特に無意味だと思う。

しかし、太極拳が今の形になるまでの経緯を追うことは、意味がある。それは、太極拳「理論」の中に混ざったいろんな情報を整理するには、役に立つ。これから別の回で紹介しようとする一つのテーマは、情報の伝承にはノイズ(雑音)が混入される。故意に混入されるものと無意識で混入されるものも。太極拳の形成の経緯を考えると、ある程度そのノイズを取り除くことができるのではないかと考える。

例えば、現代では一番知られている「簡化太極拳」は、1950年代に中国の政府系(体育関連)が作ったもので、今でも賛否両論である。理系人の太極拳では、これをノイズとして取り除くことにする。「ノイズ」という言葉自体は、不快感をもたらすかもしれないが、他の比喩にすると、「伝統系太極拳」と「簡化太極拳」は、例えばお笑いの「漫才」と「コント」のような分岐の2つで、優劣がなく、「漫才」の才能を競うのなら、「コント」はやってはいけないだろう。笑。(実際去年のM1でコントみたいなものが優勝したけど。)

世の中の「麻婆豆腐」の味は、中華料理の数ほどあるように、世の中の太極拳ももう「本場」をたどり着くことがほぼ不可能である。まあ、「本場」なんか忘れろ、せめて自分が食べたい「麻婆豆腐」を選ぼう。

Sunday133によるPixabayからの画像

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