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4回目:分科を一旦忘れて

本日東京では2度目緊急事態宣言が発動された。東京の1日の感染者人数が2000人をも超えたが、理系人にとっては、特に意外ではなかった。だって、去年のグーグル社が出したAIの予測通りになっているだけ。AIがプロの囲碁棋士に勝てる21世紀では、こういう限定されたケースの予測(例えば天気予報)は、古代の占い師の予測ではなく、相当正確になるはずだが、政治家に真剣に参考されてないのは、残念だ。理系人の政治家がいないのかな。

まあ、ここで拾いたいのは政治家の対応ではなく、コロナ政策を検討したとき、よく出る「分科会」という言葉についての議論である。

「分科」という言葉は、現代科学の発達によって誕生したものだろう。もちろん、大昔の人は、「分科」もあった。例えば、「士農工商」という分科。お侍さんは、農民のお仕事はできない。農民にいきなり商売をやらせるのも、無理がある。でも、それは結構ざっくりなもので、現代科学が進めば進むほど、分科が細かくなる。例えば、お医者さんなら、小児科、耳鼻科、眼科、外科とかに細分化され、耳鼻科の先生が眼科の病気に任せられないだろう。それぞれ専門分野での知識が深すぎるから、人間の限られている時間の中で、一つの専門家にしかなれないから。

でも、古代の人は、そこまで「分科」ができない。「浅く広く」知っているのが大半である。漢方医のお医者さんは、小児科、耳鼻科、眼科問わず、病気であれば、全て見てあげる。たまには、外科手術も辞さない。有名な話は、三国時代、華佗が関羽の肘の骨を削って治すこととか(これはあくまでも三国演義という小説での創作で、実際あのときすでに華佗が亡くなったという主張もある)。

前回は中国の民間武装集団を触れたが、その中で、2種類の集団があった。普通の農民として暮らしている村集団、とすでに出家した宗教団体。なぜその2つに注目しようとしているかというと、太極拳の由来と関係があるからだ。前者の代表格としては、陳式太極拳発祥の「陳家溝」がある。後者の代表格としては、道教系太極拳発祥の「武当山」がある。

今でも、どちらが本物の発祥という論争がまだ続くが、理系人から見ると、その2つの集団が「武」を極める目的がかなり異なる。村集団としては、まず山賊や悪い人から自分自身を守るのが重要で、そのため、別に太極拳のような内家拳でもなくても、ほかのなにかが生まれるのもおかしくないだろう。実際「陳家溝」では、「砲錘」というパワフルな拳法が古くから伝わっている。

しかし宗教団体としては、目的が変わる。出家した人間で、特に富を築くには興味がないから、たくさん財産があって守らなければならないというわけでもない。「道教」系なので、「道教」の最終目的「羽化」つまり生きて不老不死の仙人になるのが、目的であろう。出家まで、みんなそれぞれの背景がある。農民だろうか、兵士だろうか、武道家だろうか、医者だろうか。そのために、錬丹術と吐納術(呼吸術)などの道士固有の修行をベースに、「不老不死」を目的とするいろんな鍛錬法が形成されたのではないか。特に道士が得意な「瞑想」などが、元武道家たちの細かな身体操作の基礎となる身体感覚の磨きには役に立つのでは。日々次のご飯食べられるかどうか、明日山賊に殺されるかどうかを心配している村の人間には、こういう「内面」や「精神面」を鍛える鍛錬法を考え出す余裕は、なかなかないかもと思う。

そして、その道士たちは、「分科」はしてない。宗教の信者でもあり、錬丹術士でもあり、瞑想の達人でもあり、拳法のマスターでもあり、漢方医でもあり、整体師でもある。分科しないこそ、「太極拳」までの道に辿り着いたのかもしれない。

逆に理系人の私のように、一所懸命「理系」の方法で探求しようとしたら、かえって真相から離れるのかもしれない。「個」をこだわりすぎて、逆に「全体図」がわからなくなる。もちろん、現代でも、その古代人の「分科」しない考えをまるごと理解できる天才がいる。そのような人たちは、羨ましく思う。

しかし、天才ではない理系人は、「分科」という方法しかない。まあ、悩んでもしょうがないから、このまま進めていこう。大昔の白黒写真をカラーにする努力も、面白いのではないか。では、まずその「白黒写真」を探しましょう。

Photo credit: KarneyHatch on Visualhunt.com /  CC BY-SA

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