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3回目:スマホを一旦忘れて

現代人はスマホをポケットから出せば、遠いところの人と会話できるし、調べることもできる。さらに写真撮ったりビデオを撮ったりすることもできる。それは古代人から見ると、魔法みたいな信じられない世界だろう。では、現代の理系人(ロマンチックな文系人を置いといて)は古代人のことをどう思う?遠いところの人とは手紙で連絡し、何ヶ月もかかる。本というものは貴重で、なかなか調べることができない。記録するためには、文字に落とさなければならないし、そもそも、識字率が低く、記録しようとしても書けない。

こういう古代の世界は、逆の意味で、信じられない世界だろう。では、なぜその古代世界には、優れた習う価値のある古代武術があると信じてるの?マシンガンを持ってタイムスリップしたら、古代を制覇できるのではないの?

確かに、前回の最後にも触れたが、中国古代の「軍」というものは、国の財力をバックにつけて、陣地を取る集団戦闘に適しているが、せいぜい始皇帝の兵馬俑程度の軍事力になるだろう。実際西洋の工業革命が起きるまでは、二千年の間、ほぼ同じ水準で横ばい状態だった。始皇帝の時、草原民族「匈奴」の騎兵を恐れて万里の長城を築いたが、その始皇帝が没紀元前220年から千年以上経った13世紀、中原地方を治めた宋も、やがて草原民族モンゴルの騎兵に制服された。宋どころ、中東、東欧諸国のどの国でも、モンゴルの騎兵を止めることができなかった。理由は簡単、千年以上の間、科学技術が進まなかったからだ。その進まなかった理由は、また文系人の悪口になって申し訳ないが、文系人に世は治まれたからだ。技術の進みは、まず、疑いから始まる。これ、おかしくない?と思って、初めて改良だろうか発明だろうか、新しい理論が生まれるが、あいにく儒教の信者は聖人孔子の言葉をいかに理にかなうかを証明するだけに力を入れ、キリスト教は神を疑うことが許されないのだ。東側は儒教、西側はキリスト、どちらも科学的な思考がわざと停止(禁止)された。

では、技術の開発が遅れた古代には、本当に優れた「武」はどこにあるの?

国がだめだったら民間はどう?民間では、国ほど兵士を装備し、戦闘だけのために訓練し、養うことができない。しかし、古代の平和時期でも、(スマホがないから)政府の手が届かない場所はいっぱいあり、山賊などから身を守るためには、庶民は自ら戦闘力を上げる必要がある。これは所謂民間武装だ。

民間武装は、国ほど財力がないため、まず武器の質に頼ることができない。例えば、鉄の武器は明らかに青銅器の武器より攻撃力や丈夫だが、民間は、それを大量獲得することがほぼ無理であろう。大半の民間人が手に入れやすい武器で闘い、一本の棒があれば、立派な武器になる。ある場合、相手から武器を奪う必要もあるかもしれない。

さらに民間では、国ような陣地を取る大規模な戦闘ではなく、村の巷でのゲリラ作戦も避けられないため、人を集めてスケールを発揮できる団体作戦の戦術よりは、個人のスキルがもっと重視されているはず。

これらは、民間武装こそが「武」を「術」まで磨いてきた土台だと理系人の私が信じている。

Photo credit: Michiel Bechir on Visualhunt.com / CC BY-NC-SA

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