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2回目:治世を一旦忘れて

「治世」といえば、あの三国志で有名な曹操(そうそう)への評価に使われる「治世の能臣、乱世の奸雄(かんゆう)」以外は、あんまり現代日本人が使わない言葉だろう。でも現代日本人は、誰もが今の時代、特に今の日本は「治世」、すなわちよーく治まった平和な時代であることは、否認できないだろう。だって、夜の街でも女の子一人で安心に歩けるし、小学生が一人で電車に乗って登校している。何よりも、あっちこっち溢れている自動販売機が壊されないまま24時間冷えた飲み物を提供し続けていることこそ、西側先進国の人たちから見たら不思議なほど「治世」な象徴だろう。

では、古代人はどうなっているの?「治世」があったの?答えははっきりである。

18世紀まで一般の庶民は、乱世で戦争に殺され、戦乱のない時代でも、天災や凶作に苦しまれた。その結果、世界のどの国でも平均寿命は三十代ぐらいで、長生きできた人は、ほんの一握りだった。三十代の早死が普通である時代は、「治世」とはとても言えない。

では、この早死の原因は何なんだろう。理系人が考える。医療水準の低下による病気感染、農業技術の欠落による食糧不足、そしてその食糧不足による戦争や略奪。この3つの原因は、すべて一つの言葉に繋がっている=「サバイバル」。「武」はサバイバルのために生まれたのだ。

ロマンチックな文系人はよく漢字「武」という文字は、「止める」と「戈(ほこ)」の掛け合わせで、戦争を抑止するために発明された「美徳」にも見えるものだと主張するが、理系人から見ると、それはあくまでも「片思い」。イニシエの「武」はおそらく文字が発明される遥か前に、すでに存在していた「サバイバル」の本能だった。

サバイバルのために、野生動物を狩ってお腹を満たさなければならない。自力で取得できなければ、他人から奪うしかない。奪われる側も食料がなくしたらどうせ死ぬのでそれも必死に抵抗する。殺されるか、殺すか。「サバイバル」の前に、人言の動物の本能がむき出しのままで、「美徳」なんか気にする余裕がない。サバンナでライオンが獲物を追いかけると同じ、最初の「武」はシンプルで、残酷だった。

しかし、人間という種はサバンナのライオンより百倍賢い。1対1奪い合うなら、50%の確率で死ぬ。2対1なら死なずに勝つかも。さらに10対1なら無傷で勝つのはほぼ確実である。集団での略奪はいかに効率がよいことに目覚めた。それはおそらく「村」、さらに「国」という集団生活の発祥になる一つの原因だろうと理系人の私は考える。

集団生活の中で、仲間の間でもそれまで通りに奪い合うと、仲間割れになってしまい、集団の結束力や戦闘力が弱くなるから、そこからいろんな約束やルールが生まれ、初めて「道徳」や「法律」が定められるのだろう。さらに、集団での武力行使、すなわち「軍」をより強くするために、個人の能力(武術)の増強よりは、集団作戦の能力に力を入れるのが合理的だ。「武器」「装備」などのハードウェア、「兵法」や「陣地」などのソフトウェアが集団の力で発展し続けていた。

もちろん、それがいくら発展しても、現代人の銃やミサイルの前では、これらの古代人の「武」はなんの役にも立たない。では、我々は一体古代人から何を習うべきなのか?

※一部画像はVisualHuntから取得したフリー素材を使用しております

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