チェーホフ小論

劇評「桜の園」( 新国立劇場・鵜山仁演出 2015/11)

どんなチェーホフがあろうと解釈も描き方も一向にかまわないのはミンシュ主義の国だから当然だろう。とはいっても、今度の「桜の園」は恐ろしく気の抜けたヒンシュ主義的ウスッペライ舞台であった。ヒンは貧のことだ。

どうせ不評に違いないからツィッターですませて劇評を書くまでのこともなかろうと思っていた。ところが、誰も何もいわない。それは不思議じゃないかと思っていたところ、「チェーホフの真髄が感じられた・・・本来のチェーホフを見せてくれた」などと絶賛する人をみつけたので、こんなものが「真髄」と「本来」じゃぁ、ツイッターの手前、おいらの立つ瀬がないじゃないか。こりゃあ、一言書いておかにゃぁなるまいと老人としては重い腰を上げたのだ。

僕がツィッターで言ったのは以下の通りである。

「昨夜、新国立劇場「桜の園」を見た。なんともこぢんまりした造りで、鵜山仁の段取り仕事の悪い面が出てしまった。柄本 佑のロパーヒンを、素人芝居以下にした責任は鵜山と、色気に乏しい田中裕子が取るべきか?鵜山はチェーホフをなんだと思っているのだ。理解しがたい舞台だった。

新国立劇場「桜の園」、柄本 佑の出来が頗る悪かったのは衆目の一致するところだろう。あれを素人芝居みたいなものでよしとした鵜山仁の演出意図は、チェーホフの本質を芝居からはずそうとしたものに違いない。チェーホフの本質とは「ヴォードヴィル」である。」

話の筋を知らない人には少し乱暴だが、大急ぎで説明しておこう。

ロシアの大地主の娘ラネーフスカヤ(Ranevskaya)は、役立たずの夫が死んだあと幼い息子が屋敷の川で溺死したのを忘れたくて、稼ぎのない愛人のいるパリに移り住んでいたが、抵当に入っている家屋敷「桜の園」が売りに出され、いまや資産のすべてを失おうとしていた。局面を打開しようと、無能な兄貴が呼び戻してご一行様ご到着のところから劇ははじまる。こうした金持ちには昔も今も、訳の分からない取り巻きが大勢いて、連中はそれぞれ勝手な思惑でこの屋敷にかかわっている。

結局、ラネーフスカヤも兄貴も借金取りに対してまったく無力で、何と屋敷は自分のもと農奴のせがれに買われ、追い出されるはめに。ラネーフスカヤは、病気だと言ってきた愛人の求めに応じて、親類からなにがしか金を借り再びパリに向かうのであった。

鵜山仁にとっては初めてのチェーホフだったらしいが、このところ仕事が立て続けのシェイクスピアとの違いはどこかと訊ねられて「台詞のやりとりだから基本的には同じ。せりふが次のせりふの伏線になってつながっている。」と応えている。(パンフレットのインタビューで)

大体この人の受け答えは朦朧体が多くて、いつも解釈に困るのだが、これでは正真正銘嗤うしかない。文学的な評価をした上で、描こうとするものをきかれているのに演出の技巧が気になるとみえる。

こういう応えが、僕のいう段取り仕事というものだ。チェーホフとシェイクスピアの違いを訊ねられて芝居の進行を制御する演出においては同じ、したがって、両者にたいした違いはない。

演出は段取りを決める仕事だと思っているのである。

結果として、芝居がどう見えようと(見せよう)たいした関心はないという風に僕なんかには映るのである。(鵜山のこまつ座劇がおおむね好評なのは、井上ひさしの戯曲の中に段取りが完全な形で組み込まれているからである。)
ところが、それを評価している人がいた。無断拝借恐縮。

「良い舞台だった。チェーホフの真髄が感じられた。鵜山は語る。 ”チェーホフが描こうとしているのは、多分、みんな知っているけれど、定着させることがすごく難しい時間、ふっと人生の幸福や不幸を感じるとか、人生がこの瞬間に流れ去ってしまうとか、我々の日常生活の背後を流れていく人生の瞬間瞬間を捕まえることだろうと思います。” それがみごとに全編実現されていて、いかにチェーホフが、人生の、人間の生きてい様を老若男女、職業、身分の差を問わず、その真実を捕まえていることを、鵜山はこの舞台でヴィヴィドに感じさせたのだ。だから、この舞台では田中裕子のラフーネスカ夫人(中村注:昔のひとはラネーフスカヤのことをこうも言ったのか?)は突出しない、きちんとこの舞台に出てくるさまざまな人間のアンサンブルの一人として振る舞っている。わたしは東山千栄子以来、いろいろな女優のラフネースカヤ夫人を観ているが、田中が演じたこんな自然なラフネースカヤ夫人を観たことがない。いまテレビドラマで評判の柄本佑がこれも重要人物ロパーヒン役で出ているが、この柄本も演出の意図を体現して充分に役割を果たしていた。見応え十分な「桜の園」だった。役者それぞれが自分の役割をはたして鵜山が本来のチェーホフを見せてくれたのだ。」(江森盛夫氏 http://enbukuro.exblog.jp/25086940/

ほぼ、ベタほめ状態で僕が文句を言ったのが恥ずかしいぐらいである。
確かに鵜山は、上のインタビューの中で、

「チェーホフは、我々の日常生活の背後を流れていく人生の瞬間瞬間を捕まえようとしている」といってる。ところが、これで一体何を意味しているのか分かる人がいるだろうか?
あえて、解釈すれば、登場人物それぞれの人生があって、彼らはみな瞬間瞬間に幸福や不幸を感じながら、それぞれがそれぞれの事情を生きている。チェーホフは、そのことを群像劇として見せようとした、ということにでもなるのだろう。

そういう解釈もあり得ていい。間違いとはいわないが、それじゃあウスッペライと僕はいっている。そんなことではチェーホフの本質を外しているとあのツィッターで僕は怒っているのである。

『桜の園』にはめずらしく「田中裕子のラネーフスカヤが突出しない」と、僕も感じたのは、演出家の意図がそうであったと考えても間違いないところだろう。

江森氏がラネーフスカヤを「この舞台に出てくるさまざまな人間のアンサンブルの一人として振る舞っている」と評したように、この女主人が狂言回しだと「しない」なら、演出家は明らかに、いろいろな人生の瞬間瞬間をそれぞれ等価値、等間隔に扱う群像劇としてこの芝居を見せようとしたのである。この戯曲は登場人物がバラバラだという評判があるのは周知だからそういう考え方があっても不思議ではない。

ところが、これで困るのは、舞台の上で皆勝手に自分の人生を生きていくことになって、しかも、一人ひとりの人物描写など物理的に無理だから、平面的に広がっってしまった一個の点に過ぎない登場人物の、それぞれ相互の関係性がみえにくくなることだ。

その結果、ある種必然なのだが、「桜の園」がどうなるのかという話の動因が見えなくなり、劇の物語性=求心力も希薄になるのである。これは一体どういう話なのか?見ているものは戸惑うしかないのだ。

しかし、何も考えなくてもこの劇の骨格は、崩壊寸前の「桜の園」の主であるラネーフスカヤにすべての登場人物の命運がかかっているという構造が明白である。ラネーフスカヤを頂点とするヒエラルキーが立ち上がってはじめて劇のダイナミクスが動き始めるのである。

例えばを一つあげる。ラネーフスカヤの娘、アーニャの家庭教師シャルロッタ(宮本裕子)の扱いである。パリから一家にくっついてやって来た、素性はよく分からない女だが、どうあれ「桜の園」が人手に渡れば、即刻職を失う運命にある。パリから何千キロも離れた場所で、無職のまま放り出されるのだ。

今度の芝居では、そういう状況におかれていることをすっ飛ばして、いきなり派手ななりで(宮本のメークアップも間違いだ)トランプ手品を披露するという唐突な出方であった。「謎めいた女」というより場末のショーガールである。こんな女がどうすれば家庭教師など出来るのか? この時代のロシアの女の識字率は、推定10〜15%(これでも高すぎる!?)である。この女が手妻を使うことに幻惑させられて、家庭教師であり、自律心旺盛な新しいタイプの女であることと、何よりもラネーフスカヤとの距離感を描くことを演出家は失念しているようであった。僕のいう関係性の喪失である。

チェーホフは、必然性がまったくないこの女を何故登場させようと考えたのか?少なくとも、女手品師が一人欲しいと思ったのでないことは確かだろう。このチェーホフの意図を様々に考えて自分なりの像を作りあげていくことこそチェーホフ劇を演出するものの愉悦に違いない、と僕なぞは考えるのである。この設定は明らかに鵜山の思慮が浅いことの証拠である。

ここからは、僕がツィッターでつぶやいたことを中心に書くことにする。

特に、ロパーヒンの柄本 佑が素人芝居以下の出来で、それを許容した演出の責任に言及したことである。

ロパーヒンの父親は、「桜の園」の農奴であった。その息子であるロパーヒンは、幼い頃からお屋敷の奥様を美しく、近寄りがたい存在として畏敬の念で見て育った。彼は、ラネーフスカヤを敬愛しつつも、畏れている。だから、奥様の暮らしが成り立つよう様々に気を配り提案もするのである。それでも時代は変わりつつあった。

自分にもチャンスが訪れている。ただ、「桜の園」を「買ってあげて=負債をなくし楽にさせる」など恐れ多くて自分に出来ることでない、と考えている。

しかも、金銭的な成功は手にしたが、自分は「何をもとは農奴のせがれの分際で」という軽蔑と嫉妬の目で見られていることも知っている。何しろこのころ農奴制が廃止(1861年)されたあとだったのに、未だに「人間」と蔑まれ、まともなヒト扱いをされていなかったのだから。

それに対して、彼はまだ、大いばりで「俺は成功した。金持ちだ。俺は偉い。」と言い返せるまで自信がない。目下のところ、自信と卑屈がない交ぜの微妙なアンビバレンツの中を生きているのである。

ロパーヒンをやった「テレビドラマで評判の柄本佑」を初めて見たのは、2013年10月の「エドワード二世」(新国立劇場、森新太郎演出)であった。このときは、役者としての身体訓練が出来ていなくて絶えず上体が揺らぐ、という未熟さであった。芝居も不器用で、いつ破綻するかハラハラ見ていたが、おそらく森新太郎の指導よろしきを得て、後半になるにしたがって次第に調子があがると「破綻しそう」が「アナーキーで面白い」にいつしか変わっていた。

基本的には不器用がアナーキーで面白いという程度のまだ未熟な役者である。

この役者が、上のようなロパーヒンのアンビバレンツな心境を身体的にも精神的にも表現することを期待するのは最初からまったく無理というものだ。(ヘタッピーは頑張るしかないぞ!)

だから演出家の出番があるのだが、鵜山はこの本質的には不器用で未熟な役者のやるがままに放置したのである。ラネーフスカヤなど知ったことか、ロパーヒンにはロパーヒンなりの人生がある。それで文句があるかといわんばかりである。

結果、このロパーヒンは、「登場人物それぞれの人生の瞬間瞬間」どころか、せりふの『棒読み』以上になにも表現することが出来なかった。今どきの高校生演劇だってこれ以上だろう。素人芝居という所以である。

こんなものでよかろうと鵜山が判断したのは、

「チェーホフの本質を芝居からはずそうとしたものに違いない。チェーホフの本質とは『ヴォードヴィル』である。」と書いたのは全くの言葉足らずであった。おまけに「チェーホフの真髄(=群像劇のようなもの)」がここにあるといった江森氏の言葉に匹敵するほど大胆で、意味不明のいいかたであった。ここでは一言居士のそしりを甘んじて受けなければ・・・・・・。

これを説明するには、「チェーホフ小論」くらいは言わないとすまないからチョットばかり長くなる。

僕がチェーホフに関心を持ったのは、没後百年にあたる2004年前後のことである。それまで長い間、評価の定まらぬ保守派の作家と見て、なんとなく食わず嫌いしてきた。ところが、まわりが没後百年、百年と俄にうるさくなって劇を見る機会も多くなったので、嫌でもこれをどう見ればいいのか考えざるを得なくなったのだ。

真っ先に奇妙だと思ったのは「桜の園」に「—喜劇—四幕」とサブタイトルがあることだった。チェーホフがそういっている以上これを喜劇として書いたことは間違いない。ところが、僕が見た限り、これを喜劇と捉えて演出したものは一人を除いて誰もいなかった。(それは後述)

歴史的に見ても1904年の初演からしてチェーホフは、演出のスタニスラフスキーに喜劇になっていないと苦情を言っている。具体的に「もっと早口でせりふを言ってくれないと」と指摘している。チェーホフにはおかしく滑稽な喜劇とみえる明確なイメージができあがっていたのである。

この年、チェーホフはドイツで客死(結核)し、喜劇「桜の園」再演という思いは叶わなかった。一方、スタニスラフスキーは、革命後のソビエト連邦において演劇界を牽引する存在となり、創りあげた俳優訓練システムは社会主義リアリズム芸術論とともにコミンテルンを通じて世界中に影響を及ぼした。

つまり、チェーホフはロシア革命を見ていなかった。ロシア革命のはじまりと言われる「血の日曜日」は没年の翌年1905年、それから12年後にレーニンが政権を掌握して革命は成立する。この年、日本は日露戦争のまっただ中にあった。広瀬中佐は在ロシア武官だった頃からよく知られていて、チェーホフは旅順港での出来事を気にとめていたらしい。

それはともかく、チェーホフは自分が生きている時代がどういうものか、その認識が十二分にあったことは作品を通して明らかである。農奴解放をきっかけに地主の没落は誰が見ても時代の趨勢であった。しかし、それだからと言って社会改革を実力で行うべきという政治的な主張は何処にもみえない。

そこが「どん底」のゴーリキーなどと比較して、歯がゆいところだ、と評価されたのではないか。没後すぐに成立した革命のあとだっただけに。

我が国においても、戦前築地小劇場で上演される際に、すでに「チェーホフは古い」と言われていたようだが、これは一体何を意味するのか。

チェーホフ 1860年1月29日~1904年7月15日
ゴーリキー 1868年3月28日~1936年6月18日
漱石    1867年2月9日~1916年12月9日
鴎外    1862年2月17日~1922年7月8日

もし「チェーホフは古い」というならこれら日露同世代の作家もまた「古い」のである。しかし、築地小劇場もその流れを汲む戦後の俳優座もゴーリキーは古いとは言わなかった。漱石、鴎外にいたってはそもそも古いという言葉がお門違いなのは明らかだ。

にもかかわらず、チェーホフが古いのは何故か?

それはゴーリキーやスタニスラフスキーらが加わった社会主義リアリズム芸術運動と関わりがある。社会主義、マルクス主義のような唯物史観は共産社会をめざして社会は進歩すると考える。この進歩に寄与する芸術や思想は新しく、ブルジョワ的残滓がみえたり労働者階級の進歩に何らかかわらないといったものは、もはや古いとして忌避されるのである。

つまり、ロシア革命後の世界を席巻した一つの進歩史観芸術論に照らして、チェーホフは古い=革命にとって役に立たないと、断罪されたも等しいのである。我が国でもこうした特殊なレンズ(当時は当然と思われた)を通してチェーホフを見ていたことはほぼ明らかである。

チェーホフは、何と没後百年にもわたって、社会主義リアリズムというゆがんだ眼鏡を通して見られ続けていた。だから、一方のレンズで覗いた目には、一体この芝居はどんな風にやったらいいのか確かな像が結ばなかった。もう一つのレンズには「どん底」が明らかな像を結んでいるというのに。まるで焦点が合わなかったのである。

チェーホフをまともに捉えたという実感のないまま左巻に巻いた劇団は、革命を叫ばない劇に不満を感じながら適当にこんなところだろうとお茶を濁してきたのが、チェーホフ理解の実体だった。

僕は、こういう曇った進歩史観で捉えられる前のチェーホフそのものに立ち帰らねば、芝居はつくれないし、批評も書けないものと考えた。

そこで、現象学的還元ではないが、これまでのチェーホフ論議を括弧に入れて対象そのものに肉薄するため数年前に生誕の地、ロシアのタガンログに飛んだ。

飛んだというのは冗談で、グーグルアースでタガンログのまちを散歩したのだ。

タガンログは黒海に面している。

黒海の形は思い出せるが、詳しくは知らないと思うのでザッと説明しよう。真ん中に北から南に向かって突き出ているのがクリミア半島である。この間、プーチンが強引にウクライナからもぎ取ったところだ。チェーホフは、その半島の南東部にある風光明媚な保養地ヤルタに家を建て晩年を過ごした。第二次大戦後の世界をどうするかについて、英米ソ連首脳が会談した場所でもある。(スターリンがソ連邦に組み込み、ウクライナ出身のフルシチョフが変更したものをプーチンはただ取り戻しただけともいえる?)

さて、そのクリミア半島の東側に一本の細い陸地が突き出ていて、対岸のロシア側から伸びてくる陸地と狭い水道を挟んで向き合っている。ウクライナが半島の付け根を封鎖したときのロシア側からの補給路となったところである。

その水道を北に通り抜けたところに広がる内海がアゾフ海である。この海の北東部はかなり広い入り江になって大陸に切れ込んでいる。その入り江の最深奥部少し手前の港町、それがタガンログである。

真北、直線距離約九百キロメートル(東京—広島間くらいか)先にモスクワがある。

街の歴史は調べてもらった方がいいと思うが、ここは北へ押し上げるイスラムの勢力と南下しようとするロシア帝国の力が拮抗する場所で、何度も小競り合いに巻き込まれている。

しかし、昔から交易が盛んなところで、街の一角にはギリシャ人やイタリア人の建てた商館が残っていて、豪奢である。現在の人口は約28万人、青森市や福島市と同じ程度の規模の地方都市といっていい。高層建築はほとんどみえず、街路樹の緑が濃い。広い道路に面した建物は落ち着いたたたずまいにみえる。チェーホフが生まれた家が残っていて、それが街になじんでみえるのはこの町がその頃とあまり変わっていないからではないかと思った。

チェーホフの父親は農奴だったが身代金を払って解放され、タガンログで雑貨商を営んでいた。チェーホフが中高等学校に通っていたとき父親が倒産、一家はモスクワに夜逃げしたが、チェーホフだけは学業があるというので、自分の家だったところに間借りして居続けた。

父親の負債を整理する傍らこの頃から、新聞や雑誌に短編ユーモア小説を投稿、その稿料で学費をまかなっている。街にあるいくつもの演芸場に通って軽演劇やレヴューを見るのが楽しみだったというから、そこで短編や作劇の材料をたっぷり仕入れたものとみえる。

やがて大学入学の資格を取り、市の奨学金を得てモスクワ大学医学部に入学、同時に短編小説家としての仕事も続けた。

その頃書いた小篇に「パパ」と言うのがあって、落第点を付けられた息子の担任教師を訪ねて、何とか進級させて欲しいと頼む話だが、この書き出しがすっとぼけていて面白い。

「オランダ鰊のように痩せっぽっちのママが、甲虫のように太っちょで丸っこいパパの書斎へ入っていって、エヘンと咳払いをした。彼女が入っていくと、パパの膝から小間使いが飛び降りて、厚手のカーテンの陰に隠れた。ママはそんなことはちっとも気にかけなかった。パパのちっぽけな欠点にはもう慣れっこになっていて、文明的な夫を理解し尽くしている賢夫人という観点からそれらの欠点を見ていたからだ。」

翻訳した松下裕氏の要約と批評である。

「・・・とうてい二十歳の青年が書いたものとは思えない。『学問のある人間たちを説得するには金にものをいわせるよりも、むしろ、気持ちよく応対し、真綿で首を絞めるようにする方が効き目がある』と主人公にいわせている。老成人の態度である。」(『チェーホフ・ユーモレスカ』訳者解題より)

演芸場通いはモスクワでも続いた。

「描かれたモスクワ生活は活力に満ち、何と猥雑喧噪なことだろう。『ヴァラエティ・ショールーム』という名のレヴュー場、ダンスホール、射的場、ローラースケート場、レストランを兼ねた一大歓楽境、そして淫売窟。あらゆる階層の人々と人種のるつぼ。」(同上)

我が国でも、ラジオもTV もない時代の娯楽といえば、寄席(東京に百軒ほどあった)や演芸場、それらの集合体のような浅草を思い出すが、この頃のモスクワも似たようなことになっていたとは歴史の平行性というものを感じざるを得ない。

ここで重要なことは、チェーホフが、医者という職業をこなしながら、一方で、庶民の暮らしに通じ、その機微に触れながら人間という生きものがどういう存在か科学者とはまた別の視点からそれを捉えられたと言うことである。

永井荷風も浅草や玉野井やその他の歓楽街を好んで徘徊したが、人に興味はなかったし、定職を持たず、何よりも自分にしか関心がなかった。チェーホフは、一方の目で医学の対象としての人間を見ながら、一方で、『人間、この愚かにして愛すべき存在』という目で人を観察できた。

「簡約人体解剖学」という短文があるが、医者が書いた辛らつな社会批評になっている。

「頭部は誰もが持っているが、必ずしも必要なものではない。一部の人の意見に寄れば、考えるためのものだが、他の人の意見では、帽子を被るためにある。そういう意見は、それほど危険思想でもない・・・・・・。ときによっては、脳の物質を保持する。ある警察分署長が、あるとき、急死者の解剖に立ち会って、脳を見ると『こりゃ一体何だね』と医師に尋ねた。『これで物事を考えるのですよ』と医師はこたえた。署長は薄笑いした・・・・・・。

額。その機能—物乞いするときには床に打ち付け、それが満たされないときには壁に打ち付ける。非常にしばしば銭金に反応する。・・・・・・」(「チェーホフ・ユーモレスカ」)

残っている短編は500以上あるらしいが(書いたのは1000以上?)、帝政ロシアの厳しい検閲制度のもとでも、それを巧妙にまぬがれる知恵を絞って、作家は書き続けられることを優先しながらなお、大衆の共感を獲得することが出来たのである。

さて、チェーホフの人物像に拘泥することはこの文の主旨ではない、とはいえもう一つの挿話を挟んでその人となりを紹介しておくことは、チェーホフの「真髄」と「本質」を誤解しないために必要なことだと思うので、一言だけチェーホフの結婚をめぐる話に言及しておこうと思う。

チェーホフがモスクワ芸術座の女優オリガ・クニッペルと出会ったのは1998年の「かもめ」の稽古中で、チェーホフは38才、女優は30才であった。それから二人は、電報や手紙を絶え間なく交わし、次第に恋心をつのらせていった。その400通にも登る往復書簡が残されていて、関係者がすべて亡くなったあと1980年になって伏せ字が解放されたのだが、それは芝居や芸術の他に閨房のことや愛の告白、ふざけた綽名などにおよび読んでる僕などが思わず顔を赤らめるほど、あけすけなものであった。むろんチェーホフは後世公開されることなどつゆほども思っていなかっただろう。それだけにオリガとの関係は、年齢の割に純粋で無邪気な恋愛だったことをうかがわせる。

1900年冬に完成した「三姉妹」のマーシャは、オリガをモデルに書いたとチェーホフ本人が言っている。彼は恋愛対象を芸術家=女優としてその才能を高く評価していたのである。

二人は翌1901年五月に、誰にも告げず密かに結婚した。それまでチェーホフの身の回りの世話を一手に引き受けてきた妹のマリアにも母親や他の家族にも知らせていなかった。このため多くの関係者を傷つけることになってしまった。

オリガはその後もモスクワ芸術座を代表する女優を続け、チェーホフはヤルタの家を基点にしながら彼女の活躍に沿い続ける。

何故、結婚のことを誰にも告げなかったのか?

そこには悪意はみじんも感じられない。相手が女優であることに対する気遣いはあったであろう。しかし、僕は何よりもそこにチェーホフという人間の「照れ」あるいは「含羞」というものがあるのを感じずにいられない。粋とはそういうものである。

一方この結婚はまた、チェーホフの寿命を縮めることにもなった。ヤルタに居を構えたのは結核の療養のためであったが、オリガのために何度もあの厳しいロシアの気候の中を行き来したことで持病を悪化させた。それを医者であるチェーホフが知らないはずはない。

男が寿命を全うできないのは、事故か、たいがい女のせいである。しかし、女のせいで死ぬのは男の快感だ。逆なんてあるものか。だから男という生きものは女にかないっこないし、したがってオトコとは生来バカなものである。チェーホフは分かっちゃいるけどやめられなかった。ただしそうはいっても、ロシア革命に遭遇しなかったことはチェーホフにとってきっと僥倖ではなかったか、と僕などは思う。

大急ぎでタガンログからヤルタ経由で戻ることにして、これが一応現象学的還元によって取りだしたチェーホフの「本質的」人となりである。

話を元に戻そう。

彼が『桜の園』を「喜劇」だとしたこと、もっと早口でせりふを言わないと『喜劇』にならないとスタニスラフスキーに言ったことである。

これを考えるのは比較的簡単である。録画した「桜の園」をせりふが分かる程度に早回しにしたらいい。
するとみえてくるものは、実に真面目で滑稽な風景である。

主人公の女は、何も所有していないのに、求めに応じてあげようとする。それが習い性だからか、そのうち何とかなると思っているかはともかく、持ってもいないくせに財布の底をからにしてまでもあげようとする。

これは、落語の勘当された与太郎みたいなとぼけた話ではないか。こういうお人好しの与太郎にたかってやろうという輩は、何処にでもいる。女主人が所有していると思い込んでいるうちは、チャンスはいくらでもあると考えるのはこういう連中の常である。与太郎が取り巻きをぞろぞろ連れ歩くのと同じだ。

資産の象徴である「桜の園」があり続けるうちは、この与太郎とたかりの構造は継続するが、最後に「コーン、コーン」と桜の木が切り倒される音が聞こえて「ああ、やっぱりダメだったか」とみんなでずっこける。

簡単に言ってしまえば、こういう落語みたいな話なのである。

ある落語家は「落語とは人間の業の肯定である」と言ったらしいが、チェーホフはそんな生意気な野暮は決して言わない。

談志みたいに「それを言っちゃあおしまいよ」みたいなことはひた隠しに隠して、大まじめにまるで悲劇でも語るかのようなふりをして喜劇を語るのである。「ひと皮むけば人間てこんなものじゃないかえ」とは死んでもいわないのがヴォードヴィリアン、チェーホフの真骨頂なのである。

こういう人物が社会的・政治的に意味あるせりふを書いたからと言って、この度の鵜山仁演出のようにことさらのように強調してみせるのも、大誤解大会と言わねばならない。

鵜山演出は、チェーホフの社会批判がよく現れたトロフィーモフ(木村了)のせりふをこの芝居のハイライトとして際立たせようとしたのだが、それはきっと江森氏も含めて観客の一致した見方だったろうと思う。つまり、農奴制と大地主に支えられた帝政ロシアの社会矛盾が革命へと向かう予感、それがこの芝居の最も注目すべき主題だと鵜山は主張したのである。

トロフィーモフは、大学に学籍を残したままふらふらしている少しトウの立った学生で元のアーニャの家庭教師である。このインテリ高等遊民は、苦労したと自分では言っているが桜の園に寄生している風にしかみえない。

これが偉そうに大演説である。神西清訳を多少省略しながら行きますよ。

「人類は、しだいに、進歩して行きます。ただそのためには、働かなければならない。真理を探求する人たちを、全力をあげて援助しなければならんのです。僕の知っているかぎりインテリの大多数は、差当り勤労に適しません。インテリなどと自称しながら、召使は「きさま」呼ばわりする、百姓は動物あつかいにする、ろくろく勉強もせず、何一つ真面目まじめには読まず、なんにもせずに、ただ口先で科学を云々うんぬんするばかり、芸術だってろくにわかっちゃいない。みんな真面目くさって、さも厳粛な顔つきをして、厳粛なことばかり口にし、哲学をならべているが、その一方かれら一人一人の眼の前では、労働者たちがひどい物を食い、一部屋に三十人四十人と、枕まくらもしないで寝ている。どこもかしこも南京虫と、鼻をつく悪臭と、ひどい湿気と、道徳的腐敗ばかりです。あるのはただ、泥どろんこと、俗悪と、アジア的野蛮だけだ。……僕は、真面目くさった顔つきが、身ぶるいするほど嫌きらいです。真面目くさった会話にも、身ぶるいが出る。いっそ黙っていたほうがましですよ。」

別のところでは、唯物史観を披瀝する。

「ロシアじゅうが、われわれの庭なんです。大地は宏大で美しい。すばらしい場所なんか、どっさりありますよ。思ってもご覧なさい、アーニャ、あなたのお祖父さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者で、生きた魂を奴隷どれいにしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼めがあなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか? ……生きた魂を、わが物顔にこき使っているうちに――それがあなたがたを皆、むかし生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたも、伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人ひとのふところで、暮していることにはもう気がつかない、――あなた方が控室より先へは通さない連中の、ふところでね。われわれは、少なくも二百年は後れています。ロシアにはまだ、まるで何一つない。過去にたいする断乎たる態度ももたず、われわれはただ哲学をならべて、憂鬱をかこったり、ウオッカを飲んだりしているだけです。だから、これはもう明らかじゃありませんか、われわれが改めて現在に生きはじめるためには、まずわれわれの過去をあがない、それと縁を切らなければならないことはね。過去をあがなうには、道は一つしかない、――それは苦悩です。世の常ならぬ、不断の勤労です。そこをわかってください、アーニャ。」

さあ、革命だとマルクス主義者は早合点しそうだが、ここではロシアの社会問題、現在の課題をインテリの端くれである若者が指摘しているだけのことだ。

チェーホフは医者になってまもなく、シベリアと樺太を旅している。この旅で、人生観が変わったと言われているが、おそらく「我がロシアの土地柄と社会的問題」について深い認識を得たものと思われる。

当時は社会主義も無政府主義も過激思想も混在していたことは確かだが、チェーホフがそのドレにも与していた証拠はない。どう考えても、あのいい加減な人間が大まじめな顔で何かをやろうとしたところでたかが知れている。これが無理をして世の中を急激に変えようなどとしようものなら、血の雨が降るに違いない。百年前のフランス革命ではおよそ六百万人が命を落としたではないか、とチェーホフは考えたに違いない。

案の定、レーニンの革命は、結果として数千万人の命を奪ったのである。
チェーホフが生きていれば、これこそ愚の骨頂であり、これ以上の無粋はないと言ったに違いない。

トロフィーモフのせりふは、真面目に主張するようで、実はたわごとに聞こえなければならないのである。

さて、このようにして少々ザツではあるが、僕の「チェーホフ小論」から導き出される「桜の園」は、一個の落語としてみるべき「喜劇」なのだという結論に到達するのである。

最後に、「そんな演出には、一人を除いて出会ったことがない」と、はじめに書いたことである。

江森盛夫氏ほどたくさんの「桜の園」を見ていないが、1996年からの記録を見ると三つほどであった。
2001年6月、木山事務所(俳優座劇場)演出:小林裕、ラネーフスカヤ:旺なつき2002年6月、新国立劇場(新国立劇場)演出:栗山民也、森光子
2003年1月、シアターコクーン    演出:蜷川幸雄、麻実れい

他にTV中継(東山千栄子のも入る)などで何本か見ていると思うが、そのうち劇評を書いたのが二つである。栗山演出と蜷川演出であった。

旺なつきのラネーフスカヤは堂々たる宝塚で、歴史は黄昏れていくという詠嘆に満ちたものだった、という印象が残っているがただ確かな記憶ではない。

蜷川幸雄演出のは劇評を書いているのでその中から、彼がパンフレットでいっていることを引用しよう。

「・・・あまりに不条理で不確かな、そしてそれゆえにこそ現代的であるこの戯曲に取り組むのは、スフィンクスの謎に挑むオイディプスのような気分だ。未知の領域に対する好奇心と恐怖とが僕をこの作品に引き込む。 今回はシンプルな舞台空間の中で俳優の演技によって内的なスペクタクルをを描き出したいと考えている。でも、実のところぼくはいつも、初日の舞台を見てはじめて、そうか、こういう作品だったのか、と分かるのだ。今度もきっとそうだろう。ぼくはそういうタイプの演出家なのです。

つまり、演出家としてギブアップだと言っているのである。正直なのはいいことだが、そんなものを見せられる観客の立場をどうしてくれる?」

結局、真面目にチェーホフを読んでいないことがありありなのだ。

ここにも進歩史観で見られてきたチェーホフの不幸が、存在していたのである。あとは劇評を読んでいただきたい。

「一つを除いて」といったのは、2002年の栗山民也演出のことである。

僕は、劇評をこう書きだしている。

「チェーホフをどのくらい読み込んだかわからない。この難しい芝居を細部まで腑分けして、「悲劇」ではなく、彼が望んだような「喜劇」として再構築して見せた力量!

この半年後に上演された蜷川幸雄の「桜の園」(シアターコクーン)と比較すればその差は歴然。あれが世界のNINAGAWAなら、この「桜の園」によって栗山民也は世界第一級の演出家として認められてよい。

特に一見難解で、退屈になりがちな二幕目の各プロットの処理がうまく、なぜ、この屋外のシーンがなければならなかったか、ほとんどの観客は納得できたと思う。

ここには、それぞれの登場人物の言葉で語られる人生観と、たとえば社会主義思想、ニーチェ、資本主義経済、ボヘミアン、刹那主義、貧困、没落・・・とチェーホフの時代そのものがある。その背景を水彩画のスケッチのように描くことで、舞台のパースペクティブを深くして、それぞれの人物の陰影がより強く観客の心に刻まれるようにした。」

ええい、めんどうだ。続きも全部あげてしまおう。

ところで、この芝居は、名訳と言われている神西清訳を塚越真が明治末期の長野県の地主という設定に置き換えて書かれたのだが、どこをどう探してもこの潤色の理由が見つからなかった。設定そのものの整合性(つまり日本でこういう話が成立するか)を追求してもたいした意味はない。観客が見ているものはまぎれもないチェーホフそのものだったからだ。塚越真の潤色がそれほど自然で違和感がなかったともいえるが、ではなぜそのような手間ひまをかけたのか?不思議である。

ラネーフスカヤの森光子は確かに洋服では少しつらいところがあるかもしれない。だから大家の夫人らしい上品な和服は似合っていたが、声に力がないために、頼りなく見えた。この女優はいくつになってもかわいらしさの表現は自然に出るようだが、この役に肝心な色気がないのは困りものだ。観客を集めてくれるいわばスター役者だからこういうキャスティングでいいというのか?

キャスティングといえば、ヤーシャに石田佳祐を配したのは手柄であった。いや計算ずくだったかもしれない。この若い従僕の役回りは、軽く見られがちと思うが、石田が軽薄でナンパ、刹那的な生き方の若い男をうまく演じることによって、脇に光が当たり、百姓を軽べつして都会に憧れる時代の風潮を表現することが出来た。

ロパーヒンの津嘉山正種は、適役だと思うが、性格づくりに少し迷いがあったのか、スキをみせたところもあった。終幕近く好意を寄せ合っているワーリャ(キムラ緑子)と、結婚の申し込みを逡巡しながら向き合う場面では、さすがに見事な心情表現で、キムラもよく応えて心に残るシーンになった。

アーニャ(吉添文子)は、典型的「お嬢様」という意味で損な役回りであるが、これを吉添はよく演じていたと思う。特に後半になってただのお嬢様に知性の灯が ともって輝きだすといった印象で、チェーホフが自分の未来をこの若者に託そうとしていた?という演出意図をよく表現できたのではないかと思う。

銀粉蝶のシャルロッタは、難役に挑んでまずは成功していたと思う。この役は演出によってどうにでも振れてしまうものだが、根無し草でいながらしっかりと生きていこうとする女性の強靱さがでていてよかった。

 堀尾幸男の装置は、三幕目の舞踏会のシーンにてこずった様子が見られるが、全体にシンプルで自然、特に二幕目の凹凸のある屋外場面がうまく出来ていた。

僕は、チェーホフが格別好きなわけではないが、この栗山民也の解釈には納得がいく。「登場人物がバラバラ」という評判のこの戯曲を、バラバラのひとつひとつを徹底的に追求して、ついにはそれらが突き抜けたところにまとまった「喜劇」を発見するという構想に賛成である。

チェーホフ没後百年になるそうだ。近ごろ上演が多いのはそのせいかも知れない。築地小劇場の時代に既にチェーホフは古いという議論があったというが、いまになってチェーホフ盛況の理由がまさか単純な百年記念イベントでもあるまい。(そんなところか?)

むしろ、こういう不景気の時代、停滞した時代にはチェーホフがふさわしいと皆が感じているのかもしれない。ならば、蜷川幸雄のように「難解」といって急いで投げやりなものをつくるより、立ち止ってじっくりとチェーホフに取り組み「ああこんなにも味わい深かったのか」といえるものを見せたほうがいい。栗山の時代感覚の方が信頼できるといえば褒めすぎだろうか。 2/6/2003」

この「桜の園」は潤色だったが、栗山民也は何事もなかったかのようにチェーホフを見せたのであった。

おしまいのシーン、老執事フィールスが、皆んな去ってしまった館にただ一人置き去りにされる。「一生が過ぎてしまった、まるで生きた覚えがないくらいだ。……(横になる)どれ、ひとつ横になるか。……ええ、なんてざまだ、精も根もありゃしねえ、もぬけのからだ。……ええ、この……出来そこねえめが! ……三谷昇はぶつくさ言いながら椅子に腰掛けたまま、身じろぎもしない。

ト書き。
「はるか遠くで、まるで天から響いたような物音がする。それは弦つるの切れた音で、しだいに悲しげに消えてゆく。ふたたび静寂。そして遠く庭のほうで、木に斧を打ちこむ音だけがきこえる。」

「お後がよろしいようで・・・・・・」といっているような粋な終わり方であった。

ところが、今度のは、名優、金内喜久夫ともあろうものがうろうろしたあげくに床の上に横様に転がってしまう。まるで芋虫だ。無理な姿勢を保っているのもつらかろうと思わせる無粋な終わり方で、思わず、鵜山仁の馬鹿野郎と叫んでいた。


タイトル・桜の園
観劇日・2015/11/20
劇場・新国立劇場
主催・新国立劇場
期間・2015年11月11日~29日
作・アントン・チェーホフ
原作/翻訳・神西 清
演出・鵜山 仁
美術・島 次郎
照明・沢田祐二
衣装・緒方規矩子
音楽・秦 大介
出演・田中裕子 柄本 佑  木村 了 宮本裕子 平岩 紙 吉村 直 石田圭祐 大谷亮介
   金内喜久夫 奥村佳恵 山﨑 薫 木場允視 景山仁美 永澤 洋 田代隆秀