みなさんこんにちは
このブログは、私が自分で見たり経験した事柄について、ゆらゆらと考えたり感じたことを元に書いています。
今回は「ギリギリの線を逸脱すること」について考えてみました。
その結論に至った経緯を、こんかいもゆらゆらと書いてみます。
きっかけは日経新聞2025年1月13日の経済教室
#日経COMEMO #NIKKEI
論じておられるのは「言語の本質」(2024新書大賞)の共著者、今井さん
この本、2回挑戦していて、その面白さは伝わるのですがまだ自分の言葉で表現できないままになっています。いつか自分の言葉で語りたい。
それはそれとして、今回の「経済教室」の内容をまとめてみましょう。
今回の記事をClaude3が要約したものを私がさらに要約
今井さんがおっしゃりたいことは「達人話」ではないのでは?
この2793文字の記事。自分の目を通して読み下しを試みると、重要なのは前半の「真の職人は、ギリギリの線でルールを逸脱している」という指摘なのかな?と感じました。
しかし、Claude3が要約してくれた「まとめ」を見て感じたのは「必要なのは、提示された成果物が『真の達人』によるものかそうでないかを見極める「眼力」を養うことではないか?」ということです。
答えがなければ、自分で探そうと思いました
非常に示唆に富む論文なのですが、この中には具体的な事例の提示がありません。
「ギリギリの線で、ルールを逸脱している事例」はないか、自分なりに探してみてたどり着いた結論、それは。
「錦鯉」でした。
「錦鯉」の芸風は「ギリギリの線でルールを逸脱」しているのではないか?
度を外した笑いを与えてくれるユニット「錦鯉」
なんだかよくわからないけれど、話の内容が頭の中に入ってこないけど、ただただ笑わせてくれる「錦鯉」。私は大好きです。
きっとその笑いの秘訣は「ギリギリの線でルールを逸脱」しているところにあるのではないか、私はそう思いました。
Perplexityによる「錦鯉」の漫才の特徴
絶対これは逸脱してますよね。
だって、長谷川さんが「こーんにーちはーー!」って挨拶しているだけなのに、渡辺さんに「うるさい」ってつっこまれてしまう。そのやり取りだけで大笑いしてしまうのは「ギリギリの線でルールを逸脱」しているとしか思えません。
Perplexityに意見を聞きました。
錦鯉は「逸脱者」ではない
以下に引用したのは、私の質問に対するPerplexityの回答です
私の質問:
「錦鯉」の芸風って「ギリギリの線でルールを逸脱」していませんか?
私たちが「錦鯉」に大笑いできるのは、そのスタイルが「逸脱」しているからではない。むしろ過去の遺産を生かしつつ「新しい視点」を加えているから人気がある。というのがPerplexityの見解です。
せっかくなのでこの点について深堀してみましょう。
私の質問:
「人気のある芸人さんのネタは、過激なようで実は定番」
M-1で急に登場したように見えても、実は過去の遺産を継承していることが多いということになりそうですね。
そもそも、一見過激なようでも同じジャンル内にとどまっている時点で「ギリギリ」を狙ったコンテンツとはいいがたい、ということのようです。
では改めて「ギリギリ」を狙ったバラエティーの例を挙げてみましょう。
ギリギリを狙う=異ジャンルの融合
「カノッサの屈辱」は何を狙ったのか
私の質問:
フジテレビであった「カノッサの屈辱」。この番組はお笑いではありませんでしたが、ある意味ギリギリを狙っている感じがしましたね。
Perplexityの所見
まとめ「ギリギリ境界線の外」を狙うためには
「ギリギリ境界線活動」の心得
冒頭の論文で今井さんがおっしゃりたかったことを私が受け止められたのか?いささか心もとなくはあります。
それでも、以下の事項について、把握しておく必要はあるかな、と思いました。
提供する側の独りよがりになってはいけない
提供する側は、過去の遺産に精通することで「ギリギリ」の度合いを測れる
受け止める側に「理解は難しくても、感覚的によしあしがわかる」ものでないと普及は難しい
制作者、提供者チームの誰かが、その価値を測れるものである必要はある
自分にとってギリギリとは
自分は今、自分の勤め先で「ITツールを使った事務処理の改善」に従事しているのですが、組織内の壁だったり、使う道具についての受け止め方の違いといった枠を感じますね。
社内の暗黙のルールや暗黙知といったものは、正直私の活動にとって障害でしかないので、ハレーションが起こらない範囲で「ギリギリの境界線」を狙いながら活動を続けていきたいと思っています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。