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生成AIと「ギリギリの線でルールを逸脱」について考えてみる

みなさんこんにちは

このブログは、私が自分で見たり経験した事柄について、ゆらゆらと考えたり感じたことを元に書いています。

今回は「ギリギリの線を逸脱すること」について考えてみました。


その結論に至った経緯を、こんかいもゆらゆらと書いてみます。

きっかけは日経新聞2025年1月13日の経済教室

#日経COMEMO #NIKKEI

論じておられるのは「言語の本質」(2024新書大賞)の共著者、今井さん

この本、2回挑戦していて、その面白さは伝わるのですがまだ自分の言葉で表現できないままになっています。いつか自分の言葉で語りたい。

それはそれとして、今回の「経済教室」の内容をまとめてみましょう。

今回の記事をClaude3が要約したものを私がさらに要約

この記事はAIと人間の能力の違いを「達人」という観点から論じています。

1. AIは「普通の熟達者」のレベルには到達できても、規範から適切に逸脱できる「一流の達人」の域には原理的に到達できないと指摘。

2. 真の「達人」は「ギリギリの線での規範からの逸脱」、単なる規則違反ではなく、深い理解に基づく創造的な逸脱ができる人としています。

3. 教育への示唆として、単にAIの使い方を教えることよりも、自ら学び続ける力(「学力=学ぶ力」)を育成することの重要性を強調しています。

4. 結論として、AI時代を生き抜くために必要なのは、AIを使う技術そのものではなく、自律的に学び、知識を組み合わせ、新しい価値を生み出す能力だと主張しています。

この分析は、AI時代における人間の役割と教育の方向性について、具体的で示唆に富む視点を提供していると考えられます。

Claude3の要約を、私がさらに要約

今井さんがおっしゃりたいことは「達人話」ではないのでは?

この2793文字の記事。自分の目を通して読み下しを試みると、重要なのは前半の「真の職人は、ギリギリの線でルールを逸脱している」という指摘なのかな?と感じました。

しかし、Claude3が要約してくれた「まとめ」を見て感じたのは「必要なのは、提示された成果物が『真の達人』によるものかそうでないかを見極める「眼力」を養うことではないか?」ということです。

答えがなければ、自分で探そうと思いました

非常に示唆に富む論文なのですが、この中には具体的な事例の提示がありません。

「ギリギリの線で、ルールを逸脱している事例」はないか、自分なりに探してみてたどり着いた結論、それは。

「錦鯉」でした。

「錦鯉」の芸風は「ギリギリの線でルールを逸脱」しているのではないか?

度を外した笑いを与えてくれるユニット「錦鯉」

なんだかよくわからないけれど、話の内容が頭の中に入ってこないけど、ただただ笑わせてくれる「錦鯉」。私は大好きです。

きっとその笑いの秘訣は「ギリギリの線でルールを逸脱」しているところにあるのではないか、私はそう思いました。

Perplexityによる「錦鯉」の漫才の特徴

錦鯉の漫才には以下のような特徴があります:

1. バカキャラの長谷川雅紀を活かしたスタイル:長谷川が夢や仕事について語り、そのシミュレーションを行います。長谷川のバカキャラのボケに対し、渡辺隆が冷静にツッコミを入れます。
2. 誰にでも分かりやすいテーマ設定:50代の明るいバカキャラと掛け合わせた内容で、演者の人間味を活かしたボケとツッコミになっています。
3. 渡辺隆の絶妙なツッコミ:徐々に増すテンポや威力、適切なタイミング、絶妙な声量・表情・頭の叩き方、子供でも分かる自然で平易な言葉を使用しています。
4. 長谷川雅紀の独特のキャラクター:50歳で寝ても2時間で目が覚める、奥歯が8本ない為の絶妙に悪い滑舌、物忘れの多さ、滲み出る明るくて無邪気なバカさなど、強烈な個性を持っています。
5. テンションの高い挨拶:「こーんにーちはーー!」という特徴的な挨拶で漫才を始めます。
これらの要素が組み合わさり、錦鯉の漫才は幅広い層に受け入れられる、独自の魅力を持ったものとなっています。

Perplexityのまとめ記事

絶対これは逸脱してますよね。

だって、長谷川さんが「こーんにーちはーー!」って挨拶しているだけなのに、渡辺さんに「うるさい」ってつっこまれてしまう。そのやり取りだけで大笑いしてしまうのは「ギリギリの線でルールを逸脱」しているとしか思えません。

Perplexityに意見を聞きました。

錦鯉は「逸脱者」ではない

以下に引用したのは、私の質問に対するPerplexityの回答です

私の質問:

「錦鯉」の芸風って「ギリギリの線でルールを逸脱」していませんか?

錦鯉の芸風は、「ギリギリの線でルールを逸脱」しているとは言えません。むしろ、彼らの漫才は伝統的でシンプルな形式を守りながら、独自の魅力を生み出しています。
錦鯉の漫才の特徴は以下の通りです:
1. 昔ながらのコテコテでベタな漫才スタイルを採用しています。
2. 突飛な設定や斬新な仕掛けはなく、むしろ古風な漫才スタイルが特徴です。
3. バカキャラの長谷川雅紀を活かした漫才構成で、長谷川が夢や仕事について語り、そのシミュレーションを行います。
4. 長谷川のバカキャラのボケに対し、渡辺隆が冷静にツッコミを入れるという典型的な漫才の形式を踏襲しています。

錦鯉の芸風は、ルールを逸脱するのではなく、むしろ伝統的な漫才の形式を守りながら、独自の個性を発揮しています。彼らの人気は、この古典的なスタイルと現代的な要素を巧みに融合させた点にあります。

さらに、錦鯉の漫才は単に笑いを取るだけでなく、ケアの要素も含んでいます。例えば、「興奮して暴走しかけるボケ担当をツッコミ担当が老人介護の要領で抱きかかえ、横たわらせる」というシーンは、逸脱者を否定するのではなく、受け入れるという姿勢を示しています。

このように、錦鯉の芸風は伝統的な漫才のルールを守りつつ、現代的な要素やケアの視点を取り入れた独自のスタイルを確立しており、ルールの逸脱というよりも、むしろ漫才の新たな可能性を示していると言えるでしょう。

Perplexityによる錦鯉の芸風について

私たちが「錦鯉」に大笑いできるのは、そのスタイルが「逸脱」しているからではない。むしろ過去の遺産を生かしつつ「新しい視点」を加えているから人気がある。というのがPerplexityの見解です。

せっかくなのでこの点について深堀してみましょう。

私の質問:

「人気のある芸人さんのネタは、過激なようで実は定番」

M-1で急に登場したように見えても、実は過去の遺産を継承していることが多いということになりそうですね。

はい、その通りです。あなたの洞察は非常に鋭いです。この観察から、お笑いの世界における重要なポイントがいくつか浮かび上がってきます:

## 1. 「新しさ」の本質
多くの人気芸人のネタは、一見斬新に見えても、実は伝統的な芸風や技法を基盤としています。彼らは過去の遺産を巧みにアレンジし、現代的な要素を加えることで、「新しさ」を演出しています。
## 2. 安定性と革新性のバランス
成功している芸人は、観客が親しみやすい定番の要素を保ちつつ、それに独自の個性や時代性を加えています。このバランスが、幅広い層に受け入れられる要因となっています。
## 3. 漸進的な進化
M-1などの大会で突如として注目を集める芸人も、実際には長年の経験と試行錯誤の末に、その芸風を確立していることが多いです。一夜にして成功したように見えても、その背後には地道な努力と進化の過程があります。
## 4. 文化の継承と発展
お笑いの世界は、過去の遺産を継承しながら、それを現代に適応させ、さらに発展させていく過程と言えます。これは文化の継承と発展のプロセスそのものを体現しています。
## 5. 「ギリギリ」の本質
「ギリギリ」と感じさせるネタも、実は慎重に計算され、社会の許容範囲内で作られていることが多いです。真に過激なものは、むしろ長続きしない傾向があります。

このように、お笑いの世界は「伝統と革新」「安定と変化」のバランスの上に成り立っており、それが長期的な人気と持続可能性を生み出しているのです。

芸人さんにとってのギリギリ

そもそも、一見過激なようでも同じジャンル内にとどまっている時点で「ギリギリ」を狙ったコンテンツとはいいがたい、ということのようです。

では改めて「ギリギリ」を狙ったバラエティーの例を挙げてみましょう。

ギリギリを狙う=異ジャンルの融合

「カノッサの屈辱」は何を狙ったのか

私の質問:

フジテレビであった「カノッサの屈辱」。この番組はお笑いではありませんでしたが、ある意味ギリギリを狙っている感じがしましたね。

カノッサの屈辱のイメージ図

Perplexityの所見

「カノッサの屈辱」は、お笑い番組ではありませんでしたが、確かにある意味で「ギリギリを狙っている」番組だったと言えます。

この番組の特徴は以下の点にあります:
1. 歴史パロディ:当時の流行や社会の兆候を、大学講義風に歴史に忠実になぞらえて解説する画期的な歴史パロディ番組でした。
2. 真面目とおバカの境界線:番組の特徴として、真面目とおバカの境界線のギリギリを攻めるスタイルがありました。
3. 知的要素と笑いの融合:歴史的な知識を基に、現代の文化現象と巧妙に結びつけることで、知的な要素と笑いを融合させていました。
4. 独特の結合術:歴史用語と現代文化を、音の類似性、意味の類似性、形態の類似性などを利用して結びつける独特の手法を用いていました。
5. 受賞歴:この独特のアプローチが評価され、1991年度ATP賞グランプリを受賞しています。

「カノッサの屈辱」は、教育的な要素を含みつつも、パロディや言葉遊びを駆使して視聴者を楽しませる番組でした。その手法は、単なるお笑いではなく、知的な刺激と笑いを両立させる「ギリギリ」の線を狙ったものだったと言えるでしょう。

「カノッサの屈辱」についてのPerplexityの所見

まとめ「ギリギリ境界線の外」を狙うためには


「ギリギリ境界線活動」の心得

冒頭の論文で今井さんがおっしゃりたかったことを私が受け止められたのか?いささか心もとなくはあります。

それでも、以下の事項について、把握しておく必要はあるかな、と思いました。

  • 提供する側の独りよがりになってはいけない

  • 提供する側は、過去の遺産に精通することで「ギリギリ」の度合いを測れる

  • 受け止める側に「理解は難しくても、感覚的によしあしがわかる」ものでないと普及は難しい

  • 制作者、提供者チームの誰かが、その価値を測れるものである必要はある

自分にとってギリギリとは

自分は今、自分の勤め先で「ITツールを使った事務処理の改善」に従事しているのですが、組織内の壁だったり、使う道具についての受け止め方の違いといった枠を感じますね。

社内の暗黙のルールや暗黙知といったものは、正直私の活動にとって障害でしかないので、ハレーションが起こらない範囲で「ギリギリの境界線」を狙いながら活動を続けていきたいと思っています。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。







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