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「自己犠牲を美徳とした物語」に洗脳されてきたけど「都合のいい存在で居ろ」を美しく言ってるだけでしょ?

アニメや漫画等フィクションの物語では感動的で美しく表現されるけど、
現実世界では自己犠牲を実行した人だけ損を押し付けられて恨みや怒りしか生まないよねって話です。

美しいフィクションで主張するけど、
「さあ、あなたもこんな風に自己犠牲して、人として清く尊く美しい生き方をしましょう」みたく提唱するけど、
言い方・主張の仕方が綺麗っぽいだけで、要求してる事は「都合のいい存在で居ろ」って事でしょ。
小さい頃に読まされる絵本だったか教材みたいなのから既にこういうのだったなと。

アニメや漫画も、主人公を守る為に仲間が命をかけて戦うとか犠牲になるとか
大怪我負いながらも何かの為に命をかけて戦うとか
そういう姿が尊い・美しい・正義みたく描かれたりする。
アニメも漫画も好きだし、感動的な演出に涙する事も勿論あるよ。
だからアニメや漫画の演出に文句つけたい訳じゃない。
けど、フィクションでの自己犠牲的な価値観を、現実世界にも知らずに持ち込んでたら嫌だよね。

フィクションの分かりやすい自己犠牲じゃなくて、
日頃のつい無かった事にしがちな些細な事でも、
自分を尊重する事が当たり前じゃない人は
美徳に騙されがちだと思う。
そうこっち。どちらかと言うとこっちが言いたい。
分かりやすい自己犠牲じゃなくて、日常生活の中に転がる分かりにくい自己犠牲。
誰かが主張する「これが正しい」とか「こうするべき」を、何も考えずに自分の中に取り入れてしまってないか?
その何も考えずに自分の中に取り入れてきたものが、あまりにも多過ぎるんじゃないか?と考える様になった。


某夢の国の亀が質疑応答するアトラクションを撮影した動画で、
「仕事に行くのが辛い。
毎日嫌な場所に行って、嫌な事してこなきゃいけない、どうしたら良いか?」
という質問に対し、
「それは誰かを笑顔にしてないの?
誰かを笑顔にしてるなら、嫌な事ではないじゃないか」
っていう美しい回答だったんだけど、

夢の国だから、壊しちゃいけないイメージとか色々有るだろうし、美しい回答で夢の世界を楽しませてくれてる訳だし、そこに文句をつけたい訳ではない。
むしろそういうのが望まれる場所だと思う。

ただ、その美しい回答を思考停止で持ち帰り、
自分の辛い感情を無かった事にしちゃダメだと思った。
現時点で自分自身が辛いのに、
何処の誰かも分からない他人が、
知らない場所で喜んでたところでどう報われれば良いのだ?
自分には何のリターンもなく、苦しみが続いているだけだ。

その知らない他人が善人とも限らない。悪人かもしれない。
そもそも、自分のどんな行いによって人を喜ばせたのか分からないなら別に嬉しくない。

だけど、
〈自己犠牲を美徳とした物語に心を打たれる美しい心の自分〉でいないと、
社会に他人に誰かに「人でなし」って責められる気がするから、納得したフリをして苦しみに耐える事を
「頑張ってる」とか「努力してる」とか
そうやって勘違いしてたら、自分の苦しみはずっと終わらない。

溜まりに溜まった不満は、
我慢しようが押さえつけたつもりでいようが、
残念ながらいつかどこかで爆発する。
心は拒否してるのにそれを押し殺すから、
要望を聞いてもらえず、散々我慢させられまくった自分の心が暴動を起こして大爆発する。

美しいエピソードとか、
人としてこうあるべきとか、
それってホントにそうか?
それを提唱してきた人間は、実際にそれをやるのか?
自分の心がモヤモヤして「なんか納得いかねーな」と
心の何処かで気付いているなら、多分そっちが正解で
ちょっとした違和感・なんか納得いかない感は、大抵合ってると思う。
自分の感覚を信じて、なかった事にしちゃダメだと思うんだ(T ^ T)


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