映画「ふれる。」感想
どうも、月曜日に超平和バスターズの「ふれる。」を見てきました!数日経って自分の中の感想が多少整理できてきたので、文章にしてみようと思います。長くなりましたが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。見終わった方向けにネタバレありまくりで書いていきますのでそこはご注意下さい。
私のこの映画への印象を一言で表すなら「助走は良かったのに着地で失敗したもったいない映画」である。どういうことなのか、順を追って綴っていく。
まず好きな部分について。主に作品の前半部分になるのだが、良くも悪くも現実にありそうだなぁと思える感情や人間関係のすれ違い、そこから生まれる痛みを描いていた点が物語への期待感を高めてくれていた。
やや強引なきっかけで共同生活を始めた五人の恋愛関係について。男女のグループでしばらく一緒にいると、いつの間にか意外な組み合わせのカップルが生まれていたり、そのことを知らずに誰かの怒りを買ってしまって喧嘩になったりというのは現実でも割とよくある話でそれ自体に目新しさはなかった。だが、その辺りの描写が妙にリアルで痛々しい分、それぞれのシーンに「うわ、こういう人いそう!」だとか「こういうことって実際あるよね~」という立体感が生まれていたように思う。
例えば、アキはジュリに対して好意があるからこそ、星空が綺麗だというなんてことのないありふれた気持ちを共有できただけで、運命的なものを感じて舞い上がってしまう。ジュリはそのことをなんとも思っていないのにである。ユウタはナナに対して分かりやすすぎるくらいに露骨で不器用なアプローチをかけるのだが、ナナからはなんとも思われておらず、彼女の流されやすさも手伝って後々ショックを受けることになる。ナナはナナでストーカーに付きまとわれるようなことがあってなお、自身の流されやすさや思わせ振りな行動を脱することができないでいる。それを知ったアキは普段の寡黙さが嘘のようにこんな時だけ「そりゃストーカーも寄ってくるだろ」と鋭利な言葉を相手に突き刺してしまう。ユウタはそんなやりとりを見ていたにも関わらずアキに嫉妬してまた衝突する。ここに挙げたのは一例だが、こういったキャラクター達の言動に私は少なからず苛立ちを覚えたし、見ていられないような気持ちにもなった。嫌悪感を持った人もいるかもしれない。けれども、これはキャラクターにある種のリアリティがあったということの証明でもあると私は思う。
決して心地よいものではないし、気持ち悪くも思えるけれど、だからこそ未熟で、日々もがいているキャラクターたちがどんな着地をするのか興味をもって展開を見守ることができた。すれ違いの痛みなくして、成長はないということなら、拗れまくった人間関係はその後の物語に必要なものだからだ。
だが、映画が後半に進み、ふれるの力の全容が明らかになるにつれて、物語全体への違和感が徐々に膨らんでいった。設定の粗が無視できないレベルで見えてきた、ともいえる。
まず、ふれるの力で相手への悪感情や争いの種になりそうな感情が伝わっていなかった。という点について。小さい頃から少なくとも十数年いつも一緒にいた幼なじみがそのことに今まで一度も気付かなかった、なんてことがあるだろうか。ふれるのおかげで心の内がなんでも分かっていると思い込んでいたとしても、相手に言いにくいことや文句の一つくらいふれるを通してガツンといってやろうと思う機会が一度もないとは思えない。作中で描かれたように言ったつもりのことが伝わっていなかったり、無視されたと感じたりということが上京するまでの期間に全く、あるいはほとんどないまま仲の良い三人組で居続けられたというのは設定としてかなり苦しい。それをお互いが相手を心の清い人だと思っていた、で片付けてよいのだろうか。ふれる抜きで三人で話すこともほとんどなかったのだとしたらそれもまた現実離れしすぎている。
更に言えば、アキ達三人は共同生活が崩壊しかけているなかでふれるの中の謎の空間に集められそこで初めて本音をぶつけ合うという流れになるのだが、この辺りの展開も飲み込みにくいものがあった。
特に、過去にふれるの中に来ていたことをアキが忘れていた、というのは無理があるだろう。アキにとって以前にこの空間に来たのはふれると出会い、ユウタやリョウとの関係が始まった日であり、特別な日だったはずだ。しかも、そこは想像したことがそのまま現実になる不思議空間であり、こんな体験を何年前だろうと忘れる方が難しいのではないだろうか。
私なら「あの時びっくりしたよな」という話を年に一回くらいはしてしまいそうだ。上映中、この辺りにくると私は何か重要な台詞を聞き逃しでもしただろうかと不安になりつつ、なんとか振り落とされないように着いていこうというようなスタンスになっていた。映画を楽しめているとは言えない状態だった。
私の話はさておき、本音で語った三人は「仲良くなったきっかけはズルだったかもしれない。でもそれだけじゃない。」と結論付け、改めて自分達の友情に価値を見いだす。この結論には背景の美しさも相まって一瞬納得しかけたのだが、ここにもよく考えると引っ掛かる部分がある。
繰り返しになるが、三人は小さい頃に一度ここに来ているはずだ。つまり、ふれるの力を介さずに本音で話す機会は既に得ていたはずであり、そこで仲良くなったのならきっかけはズルだった、という前提が成り立たない。その時に本音で話せなかったのだとしたらそもそもどうやって仲良くなったのかという話で結局どっち付かずになってしまう。
話が入り組んできたが、要するに、「偽物の友情を定義し直し、もう一度友達になる」という展開ありきで作り手が違和感を無視して話を動かした結果、序盤から積み上げてきたキャラクターの実在感がどんどん薄まっていき、肝心の結論に説得力が生まれず、作品全体の足を自ら引っ張ってしまった、と思えてならない。
この時点でかなり困惑気味ではあったのだが、終盤のアキがふれるに語りかけるシーンに至っては必要なのかよくわからなかったというのが本音である。
私はふれるを現代のSNS等のツールの比喩なのだと解釈している。円滑なコミュニケーションの助けとなる便利なものが浸透している時代だからこそ「本当にそれだけでいいのか?」と問い直すためのきっかけや舞台装置といってもいい。だからこそ、最終的にはアキ達はその力に依存しない決意を持ってふれるとの別れを選択するのだろうと考えていた。だが、最終的にアキが出した結論はまるで違うもので、この辺りについては他にどんな解釈があるのか誰かの意見を聞いてみたいと思っている。
また、色々あった上でナナがアキに好感を持っていた理由を顔と身長とあっさり言い切っていたのには苦笑いではあったが笑えた。「まぁ、そんなもんだよね」と思わされる潔さやキャラクターの質感は嫌いではなかった。
個人的には思春期を過ぎて、でもまだ大人とも言えない五人の関係性を軸にしたアキ達の成長物語でもよかったのでは、と思う。というよりそっちの方が見たかったかもしれない。幼い頃からずっと一緒で二十歳を過ぎても一緒に住んでいるという少々歪なコミュニティに無自覚に閉じこもっていた三人が、東京での出会いを通して変化し、最終的には前向きに別々の道を選ぶ、という物語ならベタではあってももっと綺麗にまとまったのでは、、と感じつつ着地で失敗したというような感想になってしまったことが非常に惜しい。
書き終わってみると思いの外批判的な内容になってしまったが、決して嫌いな映画という訳ではないし、もったいない!という気持ちが強い。まだ公開して日も浅いので他の方の感想記事が増えてくれることを願いつつ色々と考えてみたい。