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閑話休題(学びに対する冷たい目線のことなど)
夏休みを終えた頃から、高校の探究学習の教材作成や授業案作成のサポート、果ては現場でのファシリテーションなどの依頼が増えました。
これらは、年度初めには予定してなかった業務。要するに「困った、行き詰まった、どうしよう」という現場のSOSに対して、外部の人間がサポート×軌道修正するという業務になります。
さて、そういう現場に共通することがありまして…、そこにあるのは、総合学習とか総合型選抜に対する「冷たい視線」です。
進学校の場合、まだ「受験勉強には関係ない、じゃま」という考えが職員室にも教室にもあります。それは仕方ないのですが、そういう考えが「過半数、もしくはノイジーマイノリティーとして学校を支配しているケース」が多いです。
就職中心の高校でも同じ。そもそも学ぶことに懐疑的な生徒さんにとって、数学も英語も探究も「大人になったら役に立たない勉強」に過ぎないわけで、でも就職試験・専門学校の面接で質問された時に返答できるようにという思いでしぶしぶという感じです。
こういう時「マインド形成が重要」というセオリーがあります。でも、セオリーの前に「学びに対する冷たい視線」がある以上、マインド形成はそれ以上進みません。たとえば、進学校の生徒さんに多い「受験勉強を効率よく、合理的に進めたいというマインド」ですね。そういうマインド(先入観)から見れば「学びとか探究とかは非合理的で生産性の低い時間」ということになります。
一方、受験とかそういうことでは説明できない学びの動機を持つ生徒さんも多いです(年々増えていると感じます)。
学びの動機は「知りたいという知的好奇心」「郷土愛に基づく課題解決の志」です。そういう生徒さんの多くは、主体的に学びを進めることができます。知的欲求の赴くまま、課題の解決に向けて「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤しながら続けています。
この「知的欲求を満たしたい・郷土に幸福を導きたいというマインドを動機とする学び」に対し、冷たい視線を注ぐ人がいます。
悪意はないのでしょうが「それって何の役に立つの」という問いを周囲に向けて発し続けます。
もちろん、学問的探究も地域探究も、どこかで現実との接点が必要です。しかし、それがゴールである必要はないと考えています。しかし「役に立つがゴールというマインドに基づく冷たい視線」に対し明確な返答・相手を満足させる回答を示すことは少し難しいです。この場合の役に立つは、大学受験・就職試験で合格するという「現実的成果・競争における勝利」を意味するわけですから、議論がかみ合うことはない。
一方で、学びとは「個々の知的欲求を満たすことが動機×ゴール」と言えます。それが社会貢献・課題解決を導くのは「偶然×副産物」とも言えます。
立身出世・受験が学びの目的であることを否定するつもりはないです。
でも、それだけが学びの意味ではないはず。
知的欲求を満たそうと、その欲求のままに学びを進めることは人間であることの証であり、その人にとってアイデンティティでもあるはず。それが探究とか総合型選抜の目的×評価とも言えるでしょう。
しかし、そこに冷たい視線を注ぐ価値観に、現場からのSOSの本質があるようです。
そういえば、私も現場を離れようと思ったのは「公立高校における国公立至上主義」「部活動における勝利至上主義」でした。そんな思い出したくない記憶が蘇ってしまったのが今年の後半戦。
でも、そういう冷たい視線が民間教育産業のビジネスチャンスを生み、公教育の現場に外部の人間を導くことになっているわけで…。
というわけで、冷たい視線が高校の進路予算を食いつぶすというオチ(逆説)で本日は〆ます。お粗末。