生きることの「巧い」、「下手」
あなたの周りには、あの人はいつも飄々としていて、楽しそうに生きているなあ、生き方が巧いなあと思う人はいませんか?
また、自分もそのように身軽に楽しそうに生きたいと願うことはありませんか?
私はというと、子育てにおいても仕事においても、「不器用である」。すなわち「下手である」ということを今は自覚しています。
小さい頃や学生時代は、むしろ自分では器用な方なのではないかと思っていました。
学校から与えられた課題は問題なくこなすことはできましたし、勉強だけでなく、美術や体育、音楽なども一定以上の評価を得られていたからです。
ところが、大学を卒業して社会に出てから生きづらさを感じるようになり、母に相談したところ、(あなたは)生きるのがあまり上手ではないねと言われたことがありました。
そして、結婚し子どもが生まれ、育児を始めてからも私は思うようにいかない子育ての現実にぶち当たりました。子どもは自分の思うようにならないのは当然なのですが、その中でも育児の上手い下手はあると思うのです。
私は、自分は不器用だからという言葉でずっと自分を慰めていました。
私は不器用だから、、その言葉の中には「・・・だから努力しても仕方のないところはある」というようなある種の諦め、逃げの気持ちが含まれているように感じます。
そんな生きることに対して自信がなく、少し逃げ腰の私の目を開かせてくれたのが、福厳寺住職である大愚元勝さんの「自分という壁」の本の中の言葉でした。
大愚さんはこの本の中で、仏陀の教えを集約した七仏通誡偈という偈文を紹介しています。
そして、ここでいう善悪とは、道徳的な意味を指すとともに、善は「巧み」であり、悪は「下手」であることを指すと言います。
「下手をやめて巧みに生きなさい」この言葉が、厳しくも温かい言葉として私の中で響きました。
ブッダが説いているのは、私たちが無意識に行っている習慣の中で下手におこなっているものがあれば、自分自身で下手なことに気づき、信念や思考、言葉、習慣などの大本を変えることで、巧みに生きられるようになると。そして、その結果、今ある悩みや苦しみをすべて手放せるということです。
生き方上手に見えるあの人も見えないところでの努力や習慣があってこそ、その結果として巧みな生き方ができているのかもしれない。
そのように思えたとき、不器用な自分でも、まずは巧みに生きる努力をしてみようという希望が私の中で生まれました。
仏教の教えにより、生きやすくなる。私にとっては気づきを与えてくれるありがたい教えです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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