『EATER on note』 遠藤ミチロウvol.3
取材・文・写真◎地引雄一
遠藤ミチロウ 「ミチロウ」を語る
―インタビュー集成―
第3回 スターリンから弾き語りへ
遠藤ミチロウ率いるザ・スターリンは1982年のメジャーデビュー後、ロック・シーンを越えて大きなセンセーションを巻き起こし、1985年には華々しく解散する。ミチロウはソロやビデオ・スターリンでの活動を経て、1989年に第二期の「スターリン」を結成、東欧ツアーなどを実現させた後、1992年でスターリンとしての活動を終えた。そしてそこから、バンドからソロへ、パンクから弾き語りへという新たな挑戦が始まる。
<ザ・スターリンの代償>
ザ・スターリンの解散までの道のりは決して平坦なものではなかった。波乱含みだったその内情の一旦をミチロウが語ってくれた。
―――スターリンではメンバーは途中からけっこう変わったじゃない。だけどメンバーが替わっても、スターリンらしさっていうのを常に保ってたのはすごいなって思ってたんだけど。
ミチロウ それは楽曲のせいじゃないかな。楽曲自体が誰でもできるような楽曲だったから(笑)。だって、俺が作ってんだよ。タムとかも作ってたけど。楽曲は簡単だからね。コード3つ知ってたらできるような曲ばっかだからね。だから、スターリンのああいうステージに耐えられるヤツであれば誰でもよかった(笑)。そんなテクニックいらなかったし。
―――でも音楽的には単純でも、聴けばスターリンだって分かる音色があったよね。
ミチロウ そうだね。最初の『TRASH』(1981)出して、次にメジャーから『STOP JAP』(1982)出した時はね、「なんだ、話題の割には音楽はただのオーソドックスなパンクじゃないか」って結構けなされたんだよ。「歌詞はいいんだけど、サウンドはつまらない」とかよく言われたんだよね。
それで頭にきて、『虫』(1983)っていう完全なコンセプト・ハードコア・アルバムをつくったんだよね。そうしたら評価がコロっと変わっちゃって。『ロッキング・オン』も『STOP JAP』は結構クソミソだったんだよね。「歌詞がいいんだけど、音がつまらない」とか言われて。でも『虫』を作ったら、今度は「すごいアルバムだ」とか言われて。
THE STALIN - 虫 (1983)
―――『TRASH』は音そのものが混沌とした感じがあるけど……。
ミチロウ 半分ライブだし。
―――『STOP JAP』はけっこうロンドンパンクの……。
ミチロウ そうそう。音のつくり方もわざとピストルズみたいな曲作ったりとか。やっぱりキレイになってるよね、確かに。初めてのメジャーで24チャンネル使ってレコーディングしてるから、音も厚くなってるんだけど。
THE STALIN - 爆裂(バースト)ヘッド (1983)
ミチロウ 『TRASH』(A面がスタジオ録音。B面は法政大学でのライブを収録)は8チャンネルで1日で録ったんだよ。せーのでガーァってやって、十何曲録ってるんだよね、一日で。曲によってはスタジオでセッションで、「そのままいけぇ!」って作った。「溺愛」って曲あるでしょ。あれはもともと「出来合いで作っちゃったな」っていうほうの出来合いだったんだよ(笑)。それをちょっと名前変えて、溺れる愛にしただけなんだけど。あれはスタジオで即興でつくった曲だから。
THE STALIN - 溺愛 (1983)
ミチロウ まだライブレコーディングをそのままアルバムにするっていうバンドもなかったしね。公開ライブレコーディング(法政大学学館/1981年10月31日)だよね。ほんとは公開ライブレコーディングだから、もっとグチョグチョするのを意図してさ、客の声とかがとんでもないのが入ってくるのを期待してたんだけど、意外とそうでもなかったよね。
―――レコード会社のディレクターだったKさんに、スターリンの裏話を一晩聞かされたことがあるけど(笑)。メジャーになって、かなりいろんなことがあったらしいね。契約料のこととか。
ミチロウ 俺もらってないよ、全然。逆にいうと、あのとき(『STOP JAP』リリース時)著作権の登録をするじゃない。作詞は全部俺がしてるけど、作曲は7割くらい俺がしてたんだよ。あとほかのメンバーが3割くらい……ほとんどタムだったけど。でもそれだとほかのメンバーに印税がいかないっていうんで、作曲に関しては分けたんだよね。メンバーで山分け状態にしたのね。すると、その著作権収入の税金がかかってくるじゃない。税金は全部俺に来たもん。おれが全部払ったもん、みんなの税金。
―――そうなんだ(笑)。
ミチロウ まあ、作詞印税が入ってるからいいんだけども。俺に契約料が入ったわけじゃないしさ。考えたら、俺スターリンやってるとき、借金何百万したんだろう……。
―――え、ほんと!?
ミチロウ 全部、俺だよ、借金。たしかに、スターリンっていったら遠藤ミチロウってなっちゃったけど、痛いとこも全部俺が背負ったから。だから……、確かにそれはそうだけど、借金も痛い目も全部俺が一人で背負っちゃったんだからってとこはあるよね。
あの頃のスターリンはね、乾純と遠藤ミチロウだったんだよ、軸になってるのは。乾君一回辞めてから次のヒゴ(ヒロシ)君とかとやる間は、俺と(杉山)シンタロウって感じだったけどね、スターリンの核になるのは。
だからたぶん、誤解されたままきてることがいっぱいあるんだろうね、俺ね。
―――あるんじゃないかな。
ミチロウ ミッキー(森脇美貴夫/『STOP JAP』プロデューサー)と別れたのも、理由がね、俺が荒木(経惟)さんのビデオに出る出ないで揉めたんだもん。「おれは出るよ」って言ったけど、「そんなエロビデオに出ちゃダメだ」とか。「これからメジャーになってやっていくんだから、そういうのには出ちゃダメだ」とか言って。それでどうも意見合わねえなっていうんでやめちゃった。
―――けっこう裏には確執が……。メンバーも知らないような……。
ミチロウ そうだね。だって、ミッキーのプロデュース料の話は、かなり後になってから聞いたもん。「なに!」っていうことになったものね。
<バンドとソロの間で>
第二期スターリンを解散したミチロウは、1994年、ソロとしてギター一本の弾き語りによる音楽活動を本格化させる。弾き語りの道を歩み出したミチロウが語る、バンドからソロへの変転。
───今またひとりになってフォークにもどった感じだけど。
ミチロウ 俺フォークやってると思ってないもん。全然。
───あ、そうなの。
ミチロウ バンドがギターになったってだけの話だね。もともとパンクやった時も、流れがパンクだったからパンクの旗手みたいになっちゃったけど……。パンクって憧れはすごいあったし、ミーハーだったからやっぱり(セックス)ピストルズいいなとか、パティ・スミスいいなっていうんで、俺もやりたいなってあって。それがたまたまパンクだったっていうだけで、あんまりパンクに過大に期待はしてなかったっていうか。ただ少なくともあの当時ひっかかるものとしては、一番可能性ありそうだったなっていうので、引かれていったっていう部分あるから。
―――この前にライブを聞いて、思ったよりフォークのイメージが強かった気がしたんだけど。叙情的というか。
ミチロウ あれはね、たぶんアルバムが中心だったからだと思う。フォークの感じというのは、わかんないんだよ。「弾き語り」って言ってくれたほうがわかりやすいかもしれないけど。俺はねえ、フォークっていうよりも単純に「歌」って言っちゃったほうが……。歌って言えばバンドだって歌なんだけど。
―――スターリンの時は汚い言葉を使いながらも、そこに聖性を与えるみたいなところがあったと思うけど。
ミチロウ ハンドでやると、ある種止まった感覚っていうのは歌えないよね。どうしても、動いてるか、ダーッて疾走してるか、振動してるか、そうじゃなかったら、サイケデリックな感じだったら淀んで流れているっていう……。
止まってる、見つめている雰囲気とか、じわーってゆっくりこうしている時の感覚とか感じたモノってのは歌いにくいんだよ、すごく。音止めなきゃいけないから。それを歌うには、やっぱりギター一本っていうのは最高の方法だよね。それはスターリンでは全然やんなかったから。それを思いっきりだそうかなと思って。
昔、アコースティックで二年くらいやってた時というのは、このての歌は歌ってないんだよ。「カノン」くらいだよね、せいぜい。あとは結構具体的なことを歌ってたの。メッセージ性のあるものとか、抒情的というよりも具体性で歌ってた事のほうが多かった。だから割と初めてだよね、こういう感じのは。
遠藤ミチロウ - カノン (2012)
ミチロウ (スターリンの前は)例えば「電動コケシ」や「天プラ」みたいなああいう感じの歌ってたよ(笑)。だから、抒情的といっても「電動コケシ」にあるような、ああいうもっと社会性が潜んだ抒情性というか。空虚な感じというよりかは、もうちょっと人間臭い抒情性みたいな。
遠藤ミチロウ / 電動コケシ
───じゃあ、別にパンクの前の時代に戻ったってわけではないんだね。
ミチロウ いや、それはある。スタイルが戻ったんじゃなくて、精神的なもんだよね。要するに自分が歌を歌いたいっていう衝動があるとしたら、それをそのまま取り出した形のことをちゃんとやりたいなっていう。バンドがなきゃ歌えないんじゃなくて。バンドっていうのは、自分が歌いたいっていう欲求を具体的にするための道具だっていうくらいの割り切った感じでいったら、じゃあ一番初歩的な道具からいこうか。ギター一本でバンドだ、みたいな。
別のとらえかたしたら、バンドってのはすごい社会的じゃない。三人以上とかさ。そうなってきた場合にやっぱり全然違うものになっちゃうから。そういう社会的な要素を出さないで出す音、歌っていうところからやろうかなっていうところでは、最初に戻ったみたいだね。
一回ソロになったじゃない。あの時すごいジレンマで。バンドじゃないと、言ったことが社会的になりにくいというか。例えば、音ひとつ出すにしてもスターリン・サウンドって言うけど、ミチロウ・サウンドって言わないじゃない。スターリン・サウンドっていうのは、スターリンっていう社会が生み出した音なわけじゃない。ミチロウが生み出したわけじゃないじゃない。
そんなかで俺が何をやってるかというと、歌ったりだとかそういう役目を持ってるみたいな。だからバンドというのは音自体が社会的なものになっちゃってるという発想がすごいあったから。ソロになった時はそれがなくなってね。
―――受けとる側は、スターリン=遠藤ミチロウって言ってもいいんだけど。
ミチロウ けどそうじゃない、決して。スターリンって名前を使うと、俺じゃない部分もいっぱいあるわけだよね。で、俺がいないと成り立たない部分ってのもあるわけじゃん。
―――いなかったら完全に成り立たないでしょ(笑)。
ミチロウ だからその意味では、スターリンにとって必要条件ではあるけど、十分条件じゃないんだよ。でも個人でやれば俺自身が充分必要条件で、両方なわけじゃない。
―――じゃあ、最初の解散の後のソロでやった時と、今の違いというのがあるわけなんだ。
ミチロウ やっぱり、今ひとりでやってることでハッキリすることはあるわけじゃない。それをある程度了解してくれる奴とバンド組みたいっていうのがあるからね。ひとりで歌いながら人探ししてるとこもあんだよね(笑)。これからバンド作るんだったら、スターリンっていう前に、歌ってる「遠藤ミチロウ」というものをよくわかる奴と組まないとバンドにならないなって。
───最初にスターリン始めた頃は、そういう人間同志の繋がりはけっこうあったように思えたけど。
ミチロウ うん。あったからできたんじゃない、あれ。考えれば、一番最初のメンバー四人っていうのは、タム(二代目ギター)もいれてあの辺までってのは、メンバーとのアレによってバンドがどんどん変わっていったからね。一人入れ代わるだけで、かなりバンドの体質が変わったから。それがまたスターリンだったんだけどね。
乾純が居なかったら、たぶん俺はあんなことやってないと思うしね。裸になったりとかねぇ。あいつが挑発したから、やってしまったってとこあるよねぇ(笑)。あれってけっこう、バンドの中でこいつより俺の方が目立つぞっていうのでやっちゃったとこあるからね。乾純だって、俺がわーって裸になって、「俺だって目立たなきゃ」ってドラムぶっ壊したりとかさぁやったわけじゃない。けっこうそういう相乗効果ってあるしねぇ。
そういう意味じゃあ、よくできた芸術品だよね、バンドって。生きた芸術品だよね。旬のものだから、やっぱり2年で…。いくら長持ちさせようと思っても無理だよね。
今俺スターリンやめて一人でやってるってのは、今一人のほうが、バンドでよりもいろんなこと出来るんだもん。だったらねぇ、バンドやってる意味ないじゃない。やっぱり一人で出来ないこと出来ちゃうから、バンドやりたいってのがあるんであって。だから抜け落ちてんのはねぇ、踊るって部分なんだ。
───え?
ミチロウ 俺のなかで、バンドやらないで一人でやった結果、ある種なくなってしまったっていうのは、踊れるとか、そういう要素だろうね。でもそれ、凄い重要だから、俺にとっては。だから、つい最近までやってた(第二期)スターリンは、徹底的に踊らす事ができなかったなっていうところで、不満足だったのね、すごく。
───スターリンと踊るって、結びつかないような気がするんだけど。踊るというより、暴れる……。
ミチロウ 暴れるでもいいんだよ、それは形態であって。気持ちが踊ることだからね。気持ちが即、肉体に繋がって踊ることだから。
ユーロビートで踊るとか打ち込みで踊らせるとか、そういうダンスビートっていう意味の踊りじゃないからね。ダンスビートじゃなくて、体が動かざるをえないっていう、そういう体を動かしたい衝動に駆られるっていう、そういうことだから。
<歌から何かが起こる>
アコースティックのソロ活動を始めて4年、ミチロウは精力的に全国をまわってライブを続けてきた。1997年のインタビューでは、その確かな手応えを語っている。
───今、年に何回くらいライブをしてるの。
ミチロウ 去年は120本ぐらい。今年150本ぐらいになりそうだもん。―――会場は全部違う場所?
ミチロウ 全部じゃないけど、1年に2回やるのはそんなにないから、90カ所くらいやってるかも知れない。
――― ほとんど全国回ってんの。
ミチロウ もう北海道から沖縄まで。
───すごいね。ブッキングも全部自分でやってるの?
ミチロウ 全部自分でやってる。少しずつ増やしてって。
―――ライブハウスがないところではどういう場所でやってるの?
ミチロウ 主催者を見つけて、器材を借りて、ライブやんないところに器材を持ち込んでライブをやる。ホールみたいなところもあるし、喫茶店みたいなところにブチ込んでやる場合もあるし。後は大体ね、飲み屋みたいなところで、PAはあるんだけどしょっちゅうはライブやってなくて、月1回とかいうとこが割とある。そういうとこはね、地元行かないと分かんないんだよ。例えば、あそこの町にはこういうのがあって月一回ライブをやってるみたいだって聞くと、そこ教えてもらって電話して。
道道 (遠藤ミチロウ with 坂本弘道) - お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました (2011)
―――やっぱお客はスターリンを聞いてた人が多いの?
ミチロウ そういう店に行けば行くほどスターリンファンは少ない。ライブハウスだとスターリンファンって来るけど。
―――スターリン始めた頃に、フォークバンドだとか嘘ついて地方のライブハウスけっこう廻ってなかった?(笑)。
ミチロウ そうそう。あれだと1回やったら二度とやらしてもらえなかったけど(笑)、今は二度やらしてもらえるけどね。
アコースティックの場合って、情報が音楽雑誌に載らないじゃないですか。だから誰が何をやってるってみんなあんまり知らないんだよね。「遠藤ミチロウ」って名前を知ってても「あぁ、スターリンじゃないの」くらいしか知らないから、まさかアコースティックをやるとは思ってないから、来ないしね。
だって情報がないから、全然。みんな自分のファンクラブの会報だけでしか情報知らないんじゃないかな。だからあれだけ街に歌ってる人が溢れてるのに、なかなか……大変ですよ。
───今はアピア((渋谷にあったアコースティックのライブハウス。現・目黒APIA40)がホームベースみたいな感じになってるの?
ミチロウ そうそう。あそこがマネージメント手伝ってくれてるから。俺がやってるレーベルなんかも全部手伝ってくれて。マスター(伊東哲男氏)なんかプロデュースまでするから。
ミチロウ アピアも大変だったみたいで。パンクがワァーって盛り上がってる頃、アコースティックは全然ダメで、一番大変だったみたいだけど。最近はけっこう歌う人が増えてきたから、オーディション受ける人もいっぱい増えてきたし。
───アピアとはどういう関係でこういうふうに……?
ミチロウ もともとスターリンやる前はあそこで歌ってたの。3年くらい歌ってて。
アピアのマスターはもう一個川崎に飲み屋やってるんですよ。そこの常連に俺の友達がいた(笑)。それで、俺がスターリン辞めて弾き語りを始めたっていう話を聞いて……、マスターがまたやんないかって電話かけてきて。
それでアピアでやってるうちに、俺、自分でもう一回レーベル始めるって言って。インディーズをやろうかなと思ってレコードを作ろうとしたら、マスターも手伝ってくれてるうちに、じゃあアピアでレーベルやろうってことになって、アコースティック専門レーベル、ペルメージっていうのを始めて。最初は友川(カズキ)さんの……発売はPSF(レーベル)からだけど、その中身をつくって。その次、南正人さんのアルバム出して。それから青木マリとか、アピアでやってる三人(火取ゆき、牲捜、青木マリ)の出して、(金沢)栄東さん出してって感じで。だからアピアも歌う場所だけではなくて、制作の方にも手を広げていこうかなって感じになってる。
ミチロウ 今は歌ってる人もどんどんスタイルが変わってきたみたいで、俺が4年前に歌いだしたころには、まだ友部(正人)さんみたいな人達が多かったんだって。だけど最近やたら変なヤツが増えてきたって。打ち込みを使ってやるヤツとか、いろんなスタイルのヤツが増えてきて面白いとか言ってた。
ミチロウ 俺ね、アコースティックで良かったなと思う部分ってけっこうあって。イベントみたいなのに出るじゃない。そうするとさロックバンドだけのイベントっていうのは、客が自分の目当てのバンドしか聞かないのね。
―――最近そうなっちゃったよね。
ミチロウ いや、昔からそうなんだよ。パンクがもうダメかっていった時に、ある種の大義名分がないと……、例えば、反原発でもなんでもいいんだけど、大義名分がないとイベントが成り立たなかったのね。イベントだけでやったらただの顔見せ興行で、並べました、わたしはこれしか聞きません、みたいな客集まってきて。だからどんどんイベントがつまんなくなってきたんだけど。
アコースティックの方だと、「私は友川さんしか聞きません」とかそういうのあんまりないんだよ。けっこう人が聴いてくれるわけ。それで今日からわたしはこの人も好きになりましたみたいな、そういう柔軟さっていうかな、それはアコースティックを聴いてる客のほうがすごいあるんだよ。そこがいま唯一の楽しみっていうかね。
だから友部さんのコンサートに出ても、誰のコンサートに出でも、いいと思ったら次から聴いてくれるっていう。バンドはその辺、閉鎖的だからね。
――― 元々、ロフトでイベントやってた時はすごくそういうのあったじゃない。
ミチロウ あったんだよ。俺達のころってあったのさ。
――― スターリンの客が灰野敬二をちゃんと聴いたりだとか、そういうことはあったんだよね。
ミチロウ あったのがなくなってきたでしょ。だから逆に言ったら、そういうイベント的な盛り上がりがあるとしたら、アコースティックからしか出てこないだろうなっていうのはある。俺がパンクだった頃を理解できない客もいっぱいいるんだけど、少なくともこういう面白い人もいるんだから聴いてみようかなっていう、心が閉じてない要素というのは、アコースティックの客のほうがけっこうあるから、そこが唯一の救いかな。
――― ライブハウスに来る客が自分の好きなバンドに騒ぐだけになって、イベントがもう成立しない状況になってるって言うものね。
ミチロウ 歌聴いてないんだもん。少なくても歌を聴こうって姿勢があれば、良い歌を聞きたいっていう欲求があれば、全然知らないバンドでもまずは聴いてみようかなっていう気持ちになるじゃない。それ、ないもん。歌が要らないんだな。歌要らないところには、歌から何かが起こるってことはまずあり得ないだろうな。
1994年6月8日 三鷹
1997年8月6日 三鷹
次回、アメリカインディアンの世界を、遠藤ミチロウが旅する。そこは理想的な黄泉国だった。
遠藤ミチロウ(1950~2019)
1980年代、ザ・スターリンによって日本のパンクロックを牽引し、社会的センセーションを巻き起こす。第二期スターリン解散後は、ギター弾き語りを中心にエネルギッシュな活動を続け、全国をまわってその歌を届ける。2011年、生まれ故郷福島での原発事故を受けて、プロジェクトFUKUSHIMA!の結成を主導。独自の視点から福島の再生を目指す。その後も病と闘いながら、常に新たなテーマに挑み続けてきたが、2019年4月膵臓癌のため逝去。享年69歳。
地引雄一
1978年に始まる東京ロッカーズのムーブメントに、カメラマンやスタッフとしてかかわり、以後DRIVE to 80sなどのライブハウスイベントの開催、テレグラフレコードの設立など、初期のパンク、インディーズ・シーンの形成に尽力する。その時代を記録した書籍『ストリートキングダム』改訂版がK&Bパブリッシャーズより刊行されている。遠藤ミチロウとはザ・スターリン初期にライブイベントやツアーを共にし、スターリン解散以降も交流は続いた。プロジェクトFUKUSHIMA!にはカメラマンとして参加している。
STREET KINGDOM東京ロッカーズと80sインディーズシーンPV
『EATER』
90年代に地引雄一が発行していたインディーズ・マガジン。東京ロッカーズから続くパンク、ニューウェーブ、オルタナティブ系の音楽を中心に、映画や舞踏などサブカルチャー全体をインタビューを主体として扱う。遠藤ミチロウは1号と5号にインタビューを掲載。
2014年には東日本大震災以降の時代を背景に『EATER 2014』をK&Bパブリッシャーズより刊行。遠藤ミチロウのインタビューも掲載される。