見出し画像

『EATER on note』 遠藤ミチロウ vol.4

取材・文・写真◎地引雄一

遠藤ミチロウ 「ミチロウ」を語る

―インタビュー集成―

第4回 アメリカ・インディアンへの旅


インディアンと呼ばれたネイティブ・アメリカンの人々に対して、幼少期から強い興味と共感を覚えた遠藤ミチロウは、1991年から3回にわたってインディアン居留地を訪れている。伝統的な儀式に参加したり、彼等の前で演奏をしたりといった交流の中で、ミチロウは何を感じ、何を思ったのだろうか。

<理想的な黄泉の国>


1990年7月、ミチロウは第二期のスターリンを率いて、ベルリンの壁が崩壊し大きな変動の渦中にある東ヨーロッパへのツアーを敢行する。その翌年にはアメリカに渡り、サンフランシスコなどで現地でメンバーを集めてスターリンとしてライブを行った後、憧れの地インディアン・ホビ族の居留地へ足を踏み入れたのだった。

───アメリカ・インディアンに強い興味を持っているそうだけど。
ミチロウ  インディアンに興味持ったこと自体っていうのは、例えば少数民族問題がどうのこうので興味を持ったんじゃなくて、昔から単純にインディアンに対する興味ってすごいあって。
───昔って?
ミチロウ  西部劇見てる頃から(笑)。西部劇すごい好きだったから。好きなんだけど、やっぱ疑問符がついちゃって。「なんで?」っていうみたいな。インディアンってカッコいいと思ってたわけ、すげぇ。裸馬乗ってワーみたいなさ。でもやっぱり、映画ンなかでは悪モンじゃん。で、怖いもんだったじゃない。
それが、だんだん、『ソルジャー・ブルー」(1970年/ラルフ・ネルソン監督:騎兵隊によるインディアン虐殺を描いた衝撃的な映画)あたりから、ガラッと変わってきて。俺自身やっぱりインディアン、カッコいいなってミーハー的なところあったんだけど、そういう歴史を知ってくると、ムムムってこう、なんかさあ…。
あの頃って、子供の持ってるナショナリズムってあるじゃない。例えば零戦カッコいいなとか、アメリカ軍来ると「馬鹿野郎!」みたいなとかさ。たぶん俺ら、生まれた世代が50年代だから、父親っていうのは全部戦争に行ってる連中じゃない。だからいくら戦争に負けて戦後民主主義とかいっても、精神的な部分ではかなりそういうものに引かれる要素ってあったじゃない。戦艦大和カッコいいとか、そういうナショナリズムみたいな要素はすごいあったろうし。それと繋がった部分で、やっぱりインディアンっていうのはモンゴロイドだっていう…

Soldier Blue 1970 Trailer | Candice Bergen | Peter Strauss

───あ、なるほど。
ミチロウ  おれ、歴史好きだったからさ。モンゴロイドで、何万年前かはたぶん日本人と繋がってたんだろうみたいな、そういう一種のロマンチックなアレにすごい引かれてて。それが、インディアンの現実ってどうなんだろう、現実のインディアンを見てみたいっていう、まぁ野次馬根性っていえば、野次馬根性なんだろうけれど。
 例えは東ヨーロッパへ行った時(1990年7月ドイツ・ベルリンとポーランド・ワルシャワでスターリンのライブを敢行)には、具代的なイメージがあるわけじゃない。だから、東ヨーロッパで歌った時ってのは、スターリンだからこそ行ったみたいなとこあんのネ。でも、インディアンはスターリンとか関係なく、遠藤道郎っていう一人の人間として行ってみたいっていう感じだったから。
 自分がインディアンの所に行ったっていうことが、少数民族の問題と直結されちゃうと「ちょっと違うんだよ、俺の中では」みたいな…
――― 東ヨーロッパ行った時ってのは、政治的な意味合いって事は考えて行ったの?
ミチロウ  政治的な意味合いなんて、俺はないと思うよ、はっきり言うと。要するにバンドが行って歌ってくるわけじゃない。ただスターリンって名前でやるから、そこに政治的な軋轢とか、ある種の思惑が出来るだろうなとは予想しては行ったけど。
俺達って遅れてきたウッドストック世代なのね。ロックに目覚めた時にはウッドストックはもう体験できなかったわけよ。ロックいいなあって時にウッドストックの残骸がぐわっーて残って、結局ああいうのは幻想だっていうのがわかった時じゃない。中津川フォークジャンボリーとかいろいろあったけど、全部ある種、解体の時だったわけじゃん。美しい事だけでは済まない、コマーシャリズムとの軋轢とかグチャグチャが全部見えて、結局は幻想だったんだなっていうのを、しみじみ感じて終わっちゃうとこだったじゃない。
で、東ヨーロッパがああなった時って、多分ロックとしては一番幸せな時期なわけじゃない。それこそロックが謳歌できるっていう瞬間なわけじゃない。その瞬間を逃したら体験できないなって事があって。自分らが体験できなかった幸福な瞬間を、ひょっとしたら体験できるかもしれないなっていう期待はあったよね。ポーランドで見事に「ああ、これはほんと一瞬、この時だけなんだろうな」っていう。もう来年はないだろうなっていうタイミングだったから。
―――実際にそういった感覚を体験できたんだ。
ミチロウ  うん。そういう意味では、ロックのイベントがある種事件だっていうようなことっていうのはなかなかない。
―――その事件のなかに身を置くというのが…。
ミチロウ  そうそう。置きたかったなっていう。

STALIN "下水道のペテン師” Live in East Germany (1990.7.28)

STALIN "365" Live@Jarocin in Poland (1990.8.3) by  姿凜 (スターリン東欧ツアーのライブ映像・ビデオからと思われる) 

―――それでインディアンのほうは…
ミチロウ  インディアンのほうはもっと個人的な感じで。
 インディアンのとこに行った一番最初の印象っていうのは、ああ、死ぬんだったらこんなとこで死んだらいいなあ、みたいな、ある種なんかね…、理想的な黄泉の国だった。言い方悪いけど。
自分のなかで黄泉の国的なイメージが、どっかで具体的なイメージとしてあるとしたら、それがなんかガーンと具体的に見せられたっていう感じがすごいある。それが今度のアルバム(「空は銀鼠」1994)までずーっと繋がってんだけど。
───アルバム全体に?
ミチロウ  全体のイメージってのが。死の国だよね、黄泉の国っていうのは。死っていうものをわりと日常感覚の中で意識して歌を作っちゃったらっていうのが、今回のテーマのなかで漠然となんだけど強くて。やっぱその感じってのは、インディアンの所に行って強く意識させられたとこあるよね。
普通だったら、ああいうとこ行ってインディアンの人見れば、この人達はこんな砂と岩しかないような所でも生きてるんだみたいなところに感動するんだろうけど。でも、それがある種、黄泉の国的な様子に見えたって言う事は、けっこう「生きるんだ!」っていう事にあんまりポジティブに考えてねぇのかなって、自分(笑)。

ネイティブアメリカンの教え HD

───居留地の建物は今式のものなんでしょ。
ミチロウ  例えば村役場とか、そういう公共施設は完璧な近代建物だよね、学校とか。でも一人一人が住んでる家ってのは、アメリカの生活水準から言ったらかなり低い下層階級の建物だよね。プレハブだからね。元々、石造りの家に皆住んでたんだけども。
───黄泉の国に感じたってのは、周りの風景、それとも町の様子が…
ミチロウ  風景でしょ。町のモノってのはどんどんどんどん現実的になっていくから。スーパーマーケット行けば、やっぱスーパーだし。ただ、そういう黄泉の国の風景のなかにボーンとスーパーマーケットがあったりすると、なんだろうなっていう…。まあ、アメリカだとよくある風景なんだろうけどね。砂漠のような荒れ地の中に、ボーンと一個巨大な建物があって、スーパーがあったりとかっていうのは。でも、なんか…。

アメリカ先住民居住地巡り (01) ネバダ州

『ホピの予言』との出会い>


最初のホビ族居留地での滞在でアメリカインディアンの生活に触れたミチロウは、そこでホビの長老と「ホピの予言」との宿命的とも言える出会いを果たす。

───インディアンの村にはどのくらい滞在してたの。
ミチロウ  うん、だいだい一回行くたびに二週間くらいだよね。3回行ったけど。
───実際の生活に触れた印象は、黄泉国のイメージとは…
ミチロウ  実際の生活は俺らと変わんないから。テレビ見て、普通に飯喰ってってみたいだから。だから、実際の彼らの生活に感動したっていう、そういうんじゃないよね。だって彼らが例えば未だに石ころを積み上げた家に住んでて、電気も水道も使わないで自給自足的な生活してんなら、それはそれで感動があるだろうけど。
そういうの、してる人もいるのね、部族の中で。電気も引かない、水道も引かない。昔からの生活してる人達もいるし。ただ、そういう人達は見せてくんないよ。外部の人間は信用してないから。
───実際にインディアンの人達に触れてみて、昔から持ってたインディアンに惹かれる気持ちは変わらずに…
ミチロウ  変わらずにある。うん。だから俺は、ある種インディアン的なものと関わらざるを得ない部分があったとしたら、たぶん、自分なりのやり方でしかやっていけないだろうな。
───アメリカ社会の中でのインディアンの位置ってのはどうなの。
ミチロウ  ああ、最低層だよ。いろんな少数民族がいるなかで、インディアンっていうのはたぶん一番差別されてる。数も少ないしね。経済力も持ってない。例えば黒人なんかはかなりの経済力持ってるわけじゃない。でもインディアンは人口も少ないし経済力もないし、そういう意味では差別される中でも一番下層的な部分に居て。
俺が行ったホピ族では、子供達がホピ語がもうわかんなくなってる。自分達の言語がもうなくなっちゃってて。でも唯一「きよしこの夜」をホピ語で歌えたみたいな。なんで『きよしこの夜』なんだ、ホピ語で歌えるのがっていう。俺が例えばキリスト教でもないのにクリスマス祝って「きーよしこの夜」って歌うのと同じだなっていう、そういうのにすごい共通を感じてるね。

ホピ族ダンス

――― ホビ族はキリスト教なの。
ミチロウ  ホピは土着だよ。インディアンの宗教が母体になってる。教会とかあるんだけど、そんなのクリスマスにプレゼントもらうとか、その位の感覚だよね。
 ホピ族はある意味ではねぇ、一番好戦的じゃあない部族なんだよね、インディアンのなかで。馬に乗んないんだよ。でも宣教師が入って来た時に一番抵抗したの。で、結局追っ払っちゃったんだよね。ホピ族にはキリスト教は布教できなかったんだよね。その意味でインディアンの中で一番キリスト教的じゃないよね。でも、クリスマスはみんな祝うんだよ。ドアにちゃんとクリスマスツリーの輪っかを付けたりとか.───居留地から出ていって、町で成功しようとかは…
ミチロウ  みんなじゃないけれど、若い奴は皆高校出たら一回町に出てく。だって、仕事ないんだもん、リザベーション(インディアン居留地)には何も。村役場の人間になるか、お土産物を観光客に売るしかないんだもん。そうじゃなかったら、自分で土産物を作るか。殆どそうだけどね、今。
町に行って差別されたりとかして、嫌んなって、合わなくて、結局皆帰ってきちゃって。で、若いヤツが町ブラブラしてるみたいな。だからアル中とか多いんじゃない。リザベーションで生活してる限りは、ある種生活保護受けたりとか、そういう形になっちゃうからね。だからもう飼い殺しみたいな感じだよね。

【ホピ族】秘蔵映像 !

───最初に行ったときは何人かと一緒だったの。
ミチロウ  モーリー・ロバートソンと二人で行って。モーリーは用があってすぐ帰っちゃったの。一晩しか泊まってない。あとはずーっとオレが残っていたんだけど。だけどあいつは半分日本人だから、よくわかってるから、英語でそういう話できるじゃない。だから、インディアンも判ってくれる。
最初行ったときに、ある人を訪ねて行ったんだけども、その人のとこがわかんなくて行けなくて。村に一軒ホテルがあってそこに泊まったら、俺らが探してた人達が向こうから訪ねてきたの。それでいろいろ話して、「だったらホテル高いから、俺達のとこ泊まれ」っていうふうに、次の日から。
───じゃあ、最初っから歓迎されたんだ。
ミチロウ  いや、最初は何者なんだろうって思うじゃない。いきなり来たら。「そうか、それだったらおいで」みたいな。俺が泊まった人ってのは、日本にも来てるんだよ。トーマス・バニヤッカって。
『ホピの予言』(監督:宮田雪<きよし> 1986年)っていう映画があって。原爆のウラニウムを掘って被爆してるんだよね、インディアンの人達が。そのことを取り上げた映画の中で、ホピの予言のこと説明してる人がいるわけ。
ホピの予言っていうのがあって、石版があって、そこに絵文字でつい最近までの、原爆が落ちてどうのこうのまで予言されてるって絵があって、それの説明をしてる人のとこだったんだよね、泊まったのが。その人、アイヌ問題とか少数民族の問題で日本に来てたりして。80幾つの爺さんなんだけどね。
───その人のとこへ最初から行くつもりだったんだ。
ミチロウ  俺はそういうのやってる人だって直接知らなくて、たまたま友達がそこの部族に行った時その人のとこ泊まってて、紹介してくれたんだけど。で行ってみたら、そんな大変な人だった。

映画『ホピの予言』予告編 2021年版

<ホピ・スターリン熱狂ライブ>


1991年12月の最初のホビ族居留地への旅で、ホビの若者を集めてホビ・スターリンを結成したミチロウは、翌年の夏にはナバホ族の伝統的儀式サンダンスに参加。その年の暮れには再びホピ族を訪ね、クリスマスの夜にアコースティック・ライブを行った。

ミチロウ 東ヨーロッパに行った時は、スターリンをやってたからこそ行ったみたいなとこあるんだけど、インディアンはね、別に歌ってるからって関係なく、ほんとに個人的なところで行ってて、ただ、歌ってる人間だから、結局向こうでも歌ってきたっていう、そういう事だよね。三回目に行った時は、もうとにかく歌目的で行ったから。一度目は単に、たまたまホピだったし、たまたま歌ってしまったんだけど。
二回目の時はサンダンスって儀式なのね、インディアンの一番のお祭りになる。それに参加してみたいと思って。それホピ族じゃないんだよ。それはナバホ族で、ホピ族のは別なやつなのね。
ナバホのいわゆるサン・ダンス、太陽の踊りってのがあって、それ四日間踊り続けていろいろやるんだけど。一種の成人の儀式みたいなんで、ある年齢に達した若者とかが、直接ピアスを肉にやって。
───あ、胸にロープの付いた針を刺すやつ。ほんとに今でもやってんだ、あれ。

PINE RIDGE RESERVATION (1972) documentary. FULL SCREEN. US Indians

ミチロウ  やってる、やってる。それに、参加できる。直接俺はやんないよ。周りで一緒に踊ってるだけなんだけど。それが一年に一回あんのね。元々はね、スー族かなんかのお祭りなんだよ。それがいろんな部族に伝わってナバホでもやるようになって。ホピはホピでカチ-ナダンスって別のが同じような時期にあるんだけど。それは時期的に参加できなかったけど、サンダンスに参加するために行ったのね、二度目は。
――― サンダンスは外部の人間も参加できるの?
ミチロウ  うん。アメリカ中から色んな人来てる。白人も来てるし、ヒッピーとか、黒人も来てる。
50メートル位のサークルがあって、藤棚みたいな日よけを作るのね。真ん中に木が一本あって、そこからロープでこうピアスで身体引っ張って、それで踊ってんのね、何人もの人が。四日間ずーっとそれやって。日の出から日没まで踊り続けてるからね。延々と踊るっていうよりは、一時間位踊って、あと煙を吹きかけたりとかいろいろ儀式をやって、でまた踊って、その繰り返しだけど。それを4日間やるんだけど。
そのサークルの外側の縁にみんなこう混ざって、一緒に踊ったりとか、その儀式の聖なる煙を受けたりとか、それは参加できる。外でキャンプ張ってみんな寝泊まりしてんの。一種のヒッピー・ムーブメントみたいな感じもあるんだけど。
――― 4日間ずっと行ってたの。
ミチロウ 俺は2日間だけ。
 三回目の時は、クリスマスに向こうでコンサートやろうと思って。ほんとはスターリン連れてバンドで行きたかったけど、そのころはバンドボロボロだし、スポンサー見つかんないから、結局カズヤ(高橋和也/元男闘呼組)と二人で行ってっていう世界になったんだけどね。
結局、アコースティックで歌ったっていうのは、それが最初なんだよね。インディアンのとこ行って歌ったのが最初のコンサート、おととし。一回目の時はバンド作ってやったんだもん、向こうで。
───ああ、あの高校生とか集めたっていう…。
ミチロウ  そうそう。俺ギター弾かないで。その時にサンフランシスコとバークレーで、向こうのアメリカ人のメンバー集めてスターリンっていうバンドにしてライブやって。でインディアンのとこ行って、インディアンの高校生とか楽器持ってる奴集めて、スターリンを作って。でスターリンの曲を演奏してきた。ライブやってきた。「ホピ・スターリン」て名前にして。
――-  その時の記録って残ってないの。
ミチロウ その時ビデオ撮れなかったんだよ、インディアンとやった時の。インディアンの学校へ行って話してるとこのシーンはちょっとあるんだよ。ビデオ撮ってある。最初にモーリーと行って、着いた次の日に学校に連れて行かれたのね。その時はモーリーが居たから撮ってもらったの、ビデオ。それは残ってるんだけどね。それ以降一人だったから、ビデオも撮れなかったんだけど。
───そんな短期間で、メンバーも曲を覚えたりしたんだ。
ミチロウ  リハーサルなんか、二時間位しかしてないよ。
───何曲位やったの?
ミチロウ  五曲位やったのかな。コンサート会場が小学校の体育館で、小学生が150人位いるとこで。みんなギャーって並んでて。すごいよ。何もないから、設備が。ドラムは生。ギターとベースがちっちゃいアンプ持ってって、ボーカルはあの体育館とかよく付いてるちっちゃなマイクあるじゃない、喋る用の。そのスピーカー使ってやったからね。しょぼい音なんだけど、それでも大喜びっていう。
でも後ろのほうで、高校生とか中学生も見に来てて、そいつらがビールとか飲んでて、小学校の先生が焦っちゃって、もう小学生帰らせようとしてんだ。こんなとこ環境悪いから、みたいな。俺も、まずいなぁと思いながら。で、もうやめたら、残ったメンバーが延々とやめないんだよ、盛り上がっちゃって。
小学校の先生が、「もう、終わらしてくれませんか」みたいに来てさ(笑)。「まずいんですよねぇ。後ろでビール飲んじゃってぇ」とか言って。
───やっぱり、ロックは不良だという、原点に帰っちゃった(笑)。
ミチロウ  そうそう、それで悩んじゃったよ、俺。ジレンマで。板挟みになって(笑)。
─── それで三回目がクリスマスの時の。
ミチロウ そうそう。三回目の時はギター持ってって、アコースティックでライブやった。それが最初だね。バンドのライブの中ではちょこちょことやってたけど、いわゆるアコースティックでライブっていうのはそれが初めて。それで帰ってきてすぐ、友部(正人)さんのゲストに出て。それからだよね、歌いだしたの。
―――ホビの時は何歌ったの?
ミチロウ  カズヤとふたりでやったバンド「一本道」の曲はアコースティックで俺弾いてたから。それはカバーバージョンばっかりだけどね。あとは「ヘブンズドア」とか、いろいろ。―――あ、そこで「ヘブンズドア」を。
ミチロウ  その前から歌ってたもん。あとは「カノン」とかそん時に歌える歌。 

高橋和也 蔵出しシリーズ 第二弾 94年いきなり一本道ライブ

遠藤ミチロウ just like a boy   by APIA / by チバ大三チャンネル (高橋和也からの手紙をモチーフにインディアン居留地の想い出を込めた曲)

でも、やっぱり、一種のリザベーションだよね、俺たちの生活ってのは。柵のないリザベーションみたいなもんじゃない。結局、「なんもすっことねぇよなー」みたいなとこに。特に若い奴らは、ある種理想が成り立たないっていうことは、そういうことじゃない。今日はいいもの食いてぇとか、あれが欲しい、これが欲しいっていうとこにしか行けないっていうね、物欲的なとこにしか行けないっていう部分が、同じだよね、やっぱね。インディアンの場合はそれすらも実現できないから。いい車に乗りたいって思っても、金はないしみたいな。だからますます、なんもしないでボーッとしてるしかない。
その意味では、インディアン自体が抱いている空虚さと、現代の特にこういう日本とか割りと豊かな国の若い奴が持ってる空虚さって、共通するものがあると思うよ。
                         1994年6月8日  三鷹 



<ホビの予言とフクシマ>


2011年3月11日の東日本大震災と、その後の原発事故で甚大な被害を受けた福島。遠藤ミチロウは同郷の大友良英らに呼びかけて、プロジェクトFUKUSIMAを結成、故郷福島と向き合った。そしてそのイベントの中で映画『ホピの予言』を上映したのだった。
 2012年のインタビューで、再びホビの予言が語られた。

――― 前のインタビューのときに、インディアンのホピ族の話をしていたじゃない。
ミチロウ そうそう。それがまたね、今回ね…。映画見ました? 浪江音楽祭(2012年8月、原発事故で全町避難となった浪江町の二本松市仮設住宅地区で開催)の時も上映会をやったんだけど、全然お客さん入ってくれなくて。こっちのやり方が悪かったんだけど。本当はもっと浪江の人たちに『ホピの予言』観てもらいたかったんだけどね。
――― あれは原発のことを予言しているの?
ミチロウ ホピの予言自体は、たぶん1000年くらい前からある…。石版に絵文字で、人類の未来が予言されている。あるところで人類が歩む道がふたつに分かれるんですよ。滅亡の道と生存の道っていうのがあって。その分岐点になっているのが、広島の原爆なんですよ。というのは、ホピ族とナホバ族の土地を掘り起こして、世界で初のウラニウムが採れた。それが原爆となって広島、長崎に落とされた。それを1000年前から予言してるんだっていう、それがホピの予言で。
ウラニウムを掘り出すのに、強制労働じゃないんだけど、彼らは仕事がないから安い賃金で雇われてやらざるを得なかった。自分たちの聖地を掘り起こしてウラニウムを取り出して、彼等も被爆して死んでいるんですよ。2000人、3000人か、お墓もあるんだけど。しかもその掘り起こされたウラニウムが広島、長崎に落とされた。
その掘り起こされた廃棄物、それがその辺にボンボン捨てられてる。それにも放射線がいっぱいあるんで、その辺り一帯の土地が手の付けられない汚染された土地になって死滅しているわけ。それが川に流れて川が汚染されて、また川の流域が汚染されて、その辺一帯が死の土地になっちゃってるんですよ。
労働していた人も被爆して、その子供たちも内部被爆で、被爆二世三世になっていく。それの問題と広島の問題、今度の福島の問題。原発があって、強制的に避難せざるを得なくなった人たちが、完全にだぶっちゃうんですよ。ホピの人達と浪江の人達が、完全にダブっちゃって。それであそこで上映したんです。
――― その頃から繋がるものが…。
ミチロウ あったんだね。たまたま俺、95年から広島の爆心地ライブっていうのを17年間ずっとやってるんだけど、今年もやったんだけど。その95年っていうのは終戦50年で、広島にホピの人たちも来たんですよ。平和行進みたいなので。ちょうど爆心地ライブを始めた年…。
――― 広島にホピの人が来たときには、知っている人に会えたの?
ミチロウ 探したんだけど、会えなかったんですよ。『ホピの予言』って映画の中で長老の人がホピの予言の解説をしてるんですよ。その人のところにずっと泊まってた。その人はその時来たんだけど、体の調子壊して帰っちゃってて、その時は会えなかった。もう亡くなっちゃったんですけど。トーマス・バニヤッカさんっていって。

ホピ族 トーマス・バニヤッカ(バニヤキヤ)氏のインタビュー

その映画を撮った人(宮田雪)はもう亡くなっちゃったんだけど、その奥さんがずっと映画のことをやっていて。その宮田さんも僕が泊まった人のところでずっとお世話になっていて、そこで撮ってて。
トーマスさんが言うのは、「ホピは独立してるんだ。アメリカじゃないんだ。アメリカから独立した国なんだ」って、ホピ族の中でも一番過激な運動をしていた人なんだけど。僕は本当にたまたま偶然そこで出会って、ホピの予言のこともそこで初めて聞いて、「そうなんだぁ」と思って。帰ってきてから映画を観て。
今回の震災の時も、ホピからメッセージが来ているんですよ。インターネットで福島の人に向けて。ホピの誰が出してんだかは判らない。トーマスさんの息子たちが活動してるから、たぶんそれじゃないかと思うんだけど。

遠藤ミチロウ - カノン (2012)

2012年10月4日  三鷹


 
 次回、遠藤ミチロウが歌について、スターリンについて、音楽活動の核心を語る。

いいなと思ったら応援しよう!