Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第12話『ジョニー・サンダース台風の中での山口冨士夫と忌野清志郎』
※想いの残る一瞬の出来事は、映画のワンシーンのようだ/ジョニー・サンダース&山口冨士夫
話/資料提供◎鳥井賀句
取材・文◎カスヤトシアキ
資料写真◎古岩井公啓(GoodLovin’Production)
『ジョニーが冨士夫を呼んでるぜ!』
なんちゃって、「ぜ!」は付かなかったと思うが、かなりキザな言い回しで賀句さんは電話してきたのだと思う。しかし、全世界のジョニー・ファンにまことに申し訳ないのだが、無知な僕はこのとき、ジョニー・サンダースをよくは知らなかった。ゆえに、とっさに思い浮かんだのは『ペドロ・アンド・カプリシャス』である。もちろん、歌詞が浮かんできただけなのだが、そんな半端な受け方で、なんだか要領を得ない返答をしていると、
「なんだよ!ジョニー・サンダースが来日しているの知ってんだろ!?」
と追い討ちをかけるような言葉が鼓膜を揺らした。
「もちろんだよ!」
咄嗟に嘘が出た。絶対に知っていなければならない人物のような気がしたのだ。少なくとも冨士夫のマネージャーとしては……。
「とにかく明日、都合つけてツバキハウスに冨士夫を連れて来てくれ、よろしく!」
若い頃の賀句さんは、今より明らかに突っ張っていた。相手の返事なんか聞かないぜぃ! みたいな一方的なタイミングで通話を切る。
そう言われて、メモ帳に『ジョニー・サンダース→ツバキハウス』と書いたのを覚えている。それを目で追いながら、さっそく冨士夫に電話した。
「もしもし、冨士夫?!元気ぃ?ジョニーが冨士夫を呼んでるって!」
「あん? 何処のジョニーだよ!?」
「ジョニー・サンダースだよ、知ってるだろ!?」
「ん?!…」少しの間の後、
「もちろんだよ! ドールズだ」
活気に満ちた声が返ってきた。それでも冨士夫は慎重な男である。単純な僕とは違ってアレコレと考えるのだ。行くことのメリットとデメリットを思い付く限り並べ立てたあと、「トシはどう思う?」と必ず聞いてくる。
「面白そうだから行こうよ」
そう答えると、
「行ってみるか」
ということになった。
翌日の夕方、高円寺に冨士夫を迎えに行き、新宿にあるツバキハウスに向かった。クルマを靖国通りの地下駐車場に停めて、かに道楽が目印のテアトルビルの5階へと上がる。
エレベーターが空き、ざわついた音が染み出すように聴こえてくるエントランスに向かうと、いきなり数人の男が僕らの行く手を塞いだ。明らかに冨士夫の存在に気が付いている風である。
「呼ばれて来たんだけれど」
僕は彼らの態度に“カチン”としながらも言い放った。
「ジョニーに呼ばれたんだよ!」
背中から冨士夫の罵声が飛ぶ。
あの頃の『スマッシュ』の連中はかなりいかつかった。いや、僕らに対して特別な警戒心があったのかも知れない。
「鳥井賀句さんを呼んでくれますか?」
「そうだよ! ガクを呼べよ! ガクだよ!」
背中から鼻息の荒い猛牛のような唸り声がする。
冗談抜きで僕らは一触即発であった。腕力には全く自信が無かったが、冨士夫の興奮を収めるには、どこかのタイミングで“やるしかないかも”と覚悟したのを覚えている。
それだけ彼ら(『スマッシュ』)の態度は失礼だったのだ。
しばし彼らと睨み合っていると、間もなくしてガクさんがエントランスに現れ、「おお! 冨士夫!」とか叫んで上気している。明らかに別世界からトんで来た異星人と化しているのだ。
その姿を見て、“この人、冨士夫のことを呼んどいて、『スマッシュ』に伝えてないんじゃ?”と怪しんだ。場を繕う態度が妙なのだ。何も聞かされていなければ『山口冨士夫』は明らかに要注意人物である。
結局は冨士夫がゲストだと知って、態度が豹変した『スマッシュ』の先導で、満員の客を掻き分け楽屋に入った。
さっそく誰かが呼んで来たのであろう。奥の方からジョニーが現れた。
初対面なのに、「FUJlO~!」と叫びながら迫って来る。
目が顔の全てを飲み込むくらいに見開いて、瞳孔がビカッ! っと解放されているのだ。
それは、まさに(よく見る)冨士夫と同じ表情であった。その瞬間、厄介な気分と親近感とが混ざり合いながら胃の奥を揺らした。
ジョニーに先手を打たれた棋士のようになった冨士夫は、お愛想笑いを浮かべて握手に応えている。そこに覆いかぶさるようにジョニーが顔を寄せて何かを囁いた。
すると、近くにいたジョニーの仲間が、隠し持っていた紙袋を持ち出して、テーブルの上に中身をぶち撒けたのだ。
とたんに麻の香りが辺りを包む。
「これは!!!!!!」
と、固まるその場にいた全ての人たち。
それをあざ笑うかのように、ジョニーは冨士夫に向かって言い放った。
「FUJlO~! まずは挨拶だ。どっちが早く巻けるかヤラねぇか!?」
……って。
New York Dolls - Personality Crisis
JOHNNY THUNDERS- Born to Lose (Slideshow) Live Paradiso, Amsterdam 10 Nov. 1985
セックスピストルズ グレイトロックンロールスウィンドル
ペドロ&カプリシャス ジョニーへの伝言
鳥井賀句/プロフィール
1952年7月京都生まれ。大阪に移り、小学校から高校までを過ごす。高校から学生運動や音楽活動に明け暮れ、一浪で明治大学に入学するが、セクト間の抗争に巻き込まれ中退する。後に高円寺でロック・バー『ブラックプール』を営み、『SPEED』『THE FOOLS』を中心とする数多くのはみ出しロッカーと関わり、自らも『THE PAIN』のヴォーカリストとして活動する。子供の頃からのマニアックな音楽感性を生かすと共に、英語が堪能だったため、その特技を音楽評論や海外ミュージシャンとの交流に活かした。親友にジョニー・サンダースがいたりして、ほんとうはとってもディープな面白話が満載の人生なのに、それを出し惜しみしている節がある。それらの日の目を急かすと、「だから、いま、それを書いてるんだよ!」が口癖である。
『ジョニー・サンダースと初めて会ったのは花のパリだった』
鳥井賀句/1984年のパリで、俺はジョニー・サンダースに会っているんだ。奴はその時パトリック・グランペレ監督の映画にメイン・アクターとして出演するためにパリに来てアパートを借りてもらっていた。そこでスウェーデン人の彼女であるスザンヌと一緒に暮らしていたんだ。俺はパリの『スカイドッグ・レコード』の社長であるマーク・ザマティに連れられて彼のアパートに遊びに行った。マークと俺は、当時、お互いにブラザーと呼び合うような仲だったんだ。その時、ジョニー・サンダースと俺とは初対面だったけれどお互いにバッチリだった。2人とも1952年生まれだし、リバプールサウンズとか、『キンクス』とか『ヤードバーズ』とかの話でガキみたいに盛り上がったのを覚えているよ。ジョニーは俺のことを気に入ってくれて、クルマでパリ郊外にある大学での学園祭のLIVE会場まで一緒に行ったりしたんだ。
the kinks- you really got me
The Yardbirds - For Your Love (1965) (Full version)
そんな付き合いがあったから、それから半年くらい後、明けて1985年の1月に初来日したジョニーが俺に連絡してくることになる。パリで名刺を渡していたから、初めての日本で気を許せる相手が必要だったんだろうね。
「Oh~GAKUかぁ~、東京に来たぜ~! 会いたいぜ~!」
って、いきなり本人が電話してきた。日本語にするとダサいけど、まぁ、そんな感じだ。
『スマッシュ』の連中も「ガクさんはジョニーのマブダチなんですね」なんて、スペシャル・パスをくれた感じだった。そんなわけでジョニーが宿泊している六本木プリンスホテルで再会したんだ。だけどここからが大変だったんだよ。『スマッシュ』じゃジョニーの面倒を見切れないからさ、コッチにお鉢が回ってきた。まるで彼の私設ロード・マネジャーって感じだったよ。
「GAKU! 俺のためにハンバーガー🍔を買ってきてくれ」
………、何だよ! 俺はアッシーくんじゃねぇぞ! とか思いながらも、「わかったよ」って行こうとすると、
「GAKU! ちょっと待て! 俺のバーガー🍔は、ベーコンはカリカリに焼いて、レタスはノーサンキューだぜ!」
なんて言いやがる。日本のバーガー屋はそんな風にいかないのさ、って説明すると、
「GAKU! 俺はそうじゃなきゃ食わないぜ!」だって(笑)。
まぁ、仕方ねぇな。こっちはジョニーが好きだからさ、思わずいうことを聞いちゃうわけ。だいたい奴は17歳でデビューしているんだから、バーガーひとつ買うのもローディーに行かせる習慣がある。その役が今回は俺だっていうのもなんだけどね(笑)。だけどハンバーガーなら可愛いもんさ、ジョニーはほとんどがその場の思いつきで生きている奴だから、とんでもない要求をしてくることがうんざりするほどあったよ(笑)。
「GAKU! 俺のスペシャルなガールフレンドのために、スペシャルなアンダーウェアをプレゼントしたいんだぜ〜!」
って言われて、2人して新宿は歌舞伎町の深夜の繁華街を探索したよ。ジョニーのスウェーデン人の彼女に似合ったセクシーなパンティってやつを探し歩いたのさ。結局は深夜のポルノショップに行き着いて、フロントにハートの穴が空いているデザインのパンティを買って、ジョニーはご満悦。俺は何やってんだろうなって思うわけさ。
そうしたら今度は、「GAKU! 黒鳥の湖が観たいぜ!」って言うんだ。
黒鳥の湖@新宿歌舞伎町
※新宿歌舞伎町で、約40年間続いた老舗のショーパブ。ディナーやドリンクとともに、ドラァグクイーンたちによるきらびやかなエンターテインメントが楽しめた。ショータイムは19時30分と22時からの2部制になっていた。ー2020年4月閉店ー
どこでそんな情報を仕入れてくるのか知らねぇけど、仕方ないから探し出して行ったよ。世界のパンクロッカーを連れて穴あきパンティを買ったり、ゲイ・ショーパブを観戦するのは、ちょっとした勇気が必要だったけれど、それもジョニーなんだって思ったね。要は今が面白ければそれでいいのさ。
こんなこともあった。「GAKU! スカジャンが欲しいぜ!」って言うんで、当時、原宿にあったロック系の奴ら御用達の古着屋に連れて行ったんだ。そうしたら、店に入って来た俺とジョニーを見た店員たちが、“やばい、ジョニー・サンダースだ!“って騒めいているんだよ。急にジョニー・サンダースの曲をかけたりしてさ(笑)。
Johnny Thunders & The Heartbreakers - Chinese Rocks (1977)
「GAKU! これとこれとこれを買おうぜ!」って何着か選んでカウンター・レジに持って行くと、「Everything OK! 全てジョニー・サンダースさんに差し上げます」ってことになった。そんなことってあるのかぃ? 日本だけじゃねぇのか!? って俺は思うんだけど、ジョニーは単純だからすっかり気を良くしちゃってね、そういうのが段々と癖になって行くんだよね、奴は。
“どうやら俺は日本では有名人なのだな”と思ったかどうかは知らねぇけど、翌86年に来た時の『日本青年館ホール』のLIVEの時なんか、前列から何列目かの客が着ていたジャケットと、ポークバイハットが気に入っちゃってさ、いやぁ、演奏中によくそんなの見つけるよ。ほんと、ジョニーは目(視力)だけは良いんだ。それでさ、「Hey! You!」ってそいつを手招きする。「You! You! You! そう! お前だお前!」指名されたロック少年は、戸惑いながらもドキドキしながら寄って来るじゃん。「Yes!」そう、こっちに来いよ! とでも言うようにステージの前まで呼び寄せて、“ちょっと帽子とジャケットを貸してくれ!”って、ヒョイっとひったくって、そのままジャケットを着てハットを被り、演奏しながら楽屋に帰っちまうんだ。当然、「返してください」ってロック少年が後になって楽屋まで取りに来るんだけれど、ジョニーは「まさか、返して欲しいのかい?」とでも言うようにビックリして見せているわけさ。それで「OK!」わかった、とでも言うように自分のボロボロになった穴開きジャケットを渡して、「チェンジ!」って言ってるんだから呆れるよね。彼もファンだから何にも言えなくなっちゃって。まぁ、ジョニー・サンダースの着ていたジャケットなら、ボロくてもいいか、なんて思えたらいいんだけどさ(笑)。
ジョニー・サンダース / 86年7月7+8日 日本青年館ホール公演 2Days 完全収録!
『1985年1月31日の新宿“ツバキハウス”LIVEから』
鳥井賀句/ジョニー・サンダースの初来日のメンバーはベースとドラムが黒人で、サイドギターが『マニアックス』っていうバンドをやっていたヘンリー・ポールというフランス人だった。奴は日本にタダで連れて行ってやると言われて来たので、殆どギャラはもらえてなかった。だからパリの恋人へのお土産に着物を買いたかったのだけれど、金が足りなくてさ、俺が古着の安い着物屋を探して連れて行ってたりしていたんだ
このときのジョニー・サンダースを呼んだのは『スマッシュ』。『トムス・キャビン』から『スマッシュ』に変わったときで、まだ麻田さんがいたころだな。
そのジョニーの初来日のツバキハウスに、なぜか冨士夫もいた。あのとき冨士夫は金払って入ったのかなぁ?
………………………………………………………………
◉あろうことか、賀句さんがこの期に及んでそんなこと言うので、「ジョニーが冨士夫を呼んでいる!」って言うから、わざわざ冨士夫を連れて行ったのですよ、って改めて言うと、「そうだったんだ、よく入れたなぁ」ってとぼけた台詞を続けるので、入り口で『スマッシュ』ともめて大変だったんだ、賀句さんを呼んだら飛んで来て、冨士夫を入れてくれたの覚えてないの? って問うと、「ああ、そういえば覚えてるよ」って賀句さんは言ったけれど、やっぱり呼んでおいて、そのまんま風に流されていたんだなと、改めて確信した。だったら、『スマッシュ』のあの敵対心剥き出しの態度も納得できるというもの。でも、まぁ、結果論として、あれで冨士夫とジョニー・サンダースが繋がったのだからよかった。結果オーライなのです。
………………………………………………………………
鳥井賀句/あの頃の俺はまだ冨士夫のことをよく知らなかったんだ。“Japanese Keith Richards” で黒人とのハーフだし、英語もペラペラだと思っていたら、結局、俺が通訳をしていたしな。でもさ、2人とも同じ目をしていた。ジョニーも冨士夫の目を見て、一瞬で仲間だと感じ取ったらしい。「You’re My Brother!」って手を差し出した時には、ある意味、感動したね。冨士夫もきっと同じ気持ちだったんだと思うよ。それがきっかけで、冨士夫はジョニーのホテルまで遊びに来たんだよ。遊び方は色々、ご想像にお任せします(笑)。まぁ、そんなこんなでジョニーが来日する度に、冨士夫は顔を出すようになるんだ。
※1986年/新宿ロフトでは、ジョニー・サンダース単独のアコースティック・ギグが行われた。行ってみると長蛇の列でなかなか入り込めなかったという。その理由はまもなく判明した。入り口近くの階段に山口富士夫が座って陣取っていたのだ。客たちはそのカリスマを避けるように恐る恐る行動していたため、列が引かなかったのである。冨士夫がその階段で何を考え何をしていたのかは誰にもわからない。(古岩井GoodLovin’pro,/談)
『1985年2月原宿『クロコダイル』でシークレットギグ』
鳥井賀句/ジョニーが日本のロッカーとセッションしたいと言うので、夜10時からクロコを押さえてもらい、シークレット・ギグをすることになった。俺は、花田と鮎川さんと蘭丸に声をかけたんだけれど、蘭丸はツアーで来られず。花田は22時前に来たが、鮎川さんは22時半になっても来ない。そしたら、ジョニーが「疲れているからさっさとやってホテルに帰りたい」と言い出したので、結局、花田一人がジョニーのバンドと3曲くらいやって終わった次第。それがさ、ジョニーがクロコダイルの階段を上がって外に出たその時、タクシーが止まり、鮎川さんとシーナが降りて来たんだ。シーナは化粧とドレスアップに時間がかかったのだろう、ステージ衣装だった。そんな彼らにジョニーは、「You Too Late!」と一言残し、別のタクシーを止めて帰ってしまった。それを見た鮎川さんとシーナは呆気にとられていた (笑)。後になって、その夜の会場には『ブルーハーツ』のマーシ―や、『5678ゴロッパチ(ザ・ファイブ・シックス・セブン・エイツ)』のメンバーも聞きつけて来ていたことを知った。
『1988年2月6日 “TEARDROPS/クロコダイル”のステージにジョニーと清志郎が飛び入りする』
鳥井賀句/「今度、俺たちのライブにも遊びに来てくれよ」って冨士夫が言うからさ、「行けば何かいいもんがあるかもしんねぇな!」って、(もちろんジョークだよ(笑))ジョニーが言っててさ、それがジョニーの3回目の来日時に実現したんだ。
その日は渋公(渋谷公会堂)で『スマッシュ』主催の『カバーズ』っていうイベントがあって、色んなミュージシャンが自分の好きなCOVER曲を演奏していた。そこに、たまたま来日していたジョニーも出る事になって、ギターが花田(『ルースターズ』/花田裕之)、ドラムがキース(『ARB』)、ベースが寺岡(『アナーキー』/寺岡信芳)というメンバーをバックに曲を披露したんだけれど、その姿をステージそでからじっと清志郎(忌野清志郎)が見ていたんだ。彼もこのイベントに出ていたからね。それで、ステージ終わりに直ぐに寄って来て、
「ガクちゃん、俺たちいま、『COVERS』っていうアルバムをRC(『RCサクセション』)で作っているんだけど、そこでジョニーにもギターを弾いてもらえないかな」
と言ってきた。それでジョニーに「彼は清志郎って言って、Japanese Mick Jaggerみたいな奴で、武道館でLIVEをやっちゃうほどの大物なんだけれど、ジョニーにレコーディングでギターを弾いて欲しいって言っている」と紹介したんだ。
するとジョニーはマネージャーに聞いてくれと言う。マネージャーに聞くと『ZIGGY(ジギー)』のレコーディングの時の例を挙げて、一曲20 万だったから、同じギャラでやってもいいとサラッと言ってきた。
すると清志郎は、
「ガクちゃん、このレコーディングはアンチ原発だから、バジェット(予算)があまり無いんだ。“No Nukes”を訴えるための大切な企画ものなんだよ」
と返してくる。その通りにマネージャーに伝えると、彼は「ちょっと考えさせてくれ」言いながら、再び少し離れたところに移動してジョニーと会議をする。そしてまた10分ほどして戻って来て、
「わかった、そうゆうことならノーギャラでやろう。俺たちも“No Nukes”に賛成だし、そのレコーディングに賛同するよ!」
ってことになったんだ。
レコーディングはその夜に東芝EMIの第3スタジオで行われるんだけれど、「その前にジョニーには約束があって、そこに寄ってから行くことになるよ」って清志郎に伝えた。そしたら「それはどこ?」って聞くから、「山口冨士夫のLIVEでセッションをすることになっているんだ」と答えたら、「冨士夫ちゃんか、俺も行ってもいいかな」ってことになったんだよね。
………………………………………………………………
◉あの日は、まだ誰も来ていない時間にクロコダイルに行ったら、見知らぬスタイリッシュな外国人が、ステージに腰掛けているのが映った。日本人の日常的な視点から見ると、そういうシーンはちょっとした映画のワンシーンのように映る。話しかけてみるとジョニー・サンダースのマネージャーだった。パーソナルなマネージャーではなく、今回のツアーのために同行した知人だと言う。本職はグラフィック・デザイナーだと言っていた。後で彼(ジョニー・サンダース)がセッションをする会場を下見に来たのだと言うのを聞いて、意外にキチンとしているんだな、と思ったのを覚えている。
午後3時を過ぎた辺りから『TEARDROPS』のメンバーがボチボチと集まって来て、それぞれにセッティングを始める。今回のシーンはこれまでと随分と違っていた。前年の冬にシャバダバっと世間に現れた冨士夫は、見通しの良い景色の中で活気に満ちていた。新たなバンドで行った『ライブイン』では客が溢れかえっていたし、その約一ヵ月後となるこのクロコダイルも、すでに予約で埋まっているという。そこに今夜はジョニー・サンダースがステージに現れるのだ。それを僕らは秘密にしていた。いわゆるシークレット・ゲストというやつだ。いったいどうなるのだろう?いつになくワクワクしていたのを覚えている。
通常、『クロコダイル』のステージの時は、19時半からスタートすることにしていた。客の年齢層が高いので仕事終わりの客に合わせていたのだ。たまに20時スタートの時もある。時にはメンバーがとっ散らかって21時からリハと本番を一緒にすることもあった。まぁ、これは単なるミステイクだが、それこそ冨士夫にとっては『クロコダイル』が好き勝手にできるホームグラウンドだったのだ。
リハも終わり、18時に客入れを開始して、メンバーは楽屋で本番前の一息をついていた。「ここからが長いんだよな」とか言っている。本番までの1時間半、セットリストを作ったり、ステージ用のメイクをしたりするのだが、『フールズ』の伊藤耕の場合は、ここでサウナに行ってしまったまま帰ってこなかったりするので、要注意の時間帯でもある。
19時も回った頃だろうか、「電話です!」と店のスタッフが呼びに来た。携帯もない時代、連絡は店にするしかない。エントランスを出た階段の下にある店の電話に出ると、
「これからそっちに行くから店の裏口を開けておいてくれ!」
と言う賀句さんの声がした。“今どこに?”と返す言葉と相手の受話器を切る音が重なる。“相変わらずだなぁ”と思いながら満杯の客を掻き分けて、ステージ横まで引き返し、楽屋横にある狭い階段を上がり、裏口のシャッターを開けた。ここは店の厨房へと続いていて、存在自体を知らない人が大半なのだが、悪賢い『タンブリングス』と『フールズ』の客は、ここを知るや否や、ある時期ここから出入りしてチャージや飲み代を踏み倒す客が増え、困惑した店が鍵をかけることになっていたのだ。その鍵を開けてシャッターをオープンすると、
「ヤァ!」という笑顔で、清志郎さんが立っていた。
“えっ!? なんで?”
訳がわからなかったが、とにかくどうぞというように狭い階段を降り、楽屋に通したら『TEARDROPS』のメンバーもびっくりしていた。
「ヤァ!一発やりに来たんだ。あとでジョニーも来るけど、やってもいいかい?」
なんて、例の調子で清志郎さんが挨拶をすると、
「もちろんだよ!」
って、冨士夫も何のウィットもなくまともに答える。
(冨士夫は“旅”から戻ってきたばかりで、誰よりも真面目な人物に変身している時期だったのだ)
さて、何を(曲)やろうかと言う話になった。そこで中島カズが「スタンド・バイ・ミーはどう?」と言ったのだ。清志郎も「それなら(ソラで)歌える」と言うことになってステージの初っ端からいきなり清志郎がステージに現れることになる。
まるで通りすがりの店に立ち寄った風態で、いきなり歌う清志郎のパフォーマンスに“さすがだな”なんて、見入っているうちに、いつもの癖で店側は再び裏口のシャッターを閉じてしまっていた。つまり、肝心のジョニーがシャットアウトされていたのだ。それに気がついて “ヤバイ!”と思う瞬間と入り口からの大歓声が重なった。見るとピンクのスーツを着たジョニー・サンダースが、目を見開いたままのハイテンションな形相で、まるでラガーマンのように客を掻き分けながら、ステージに向かって来るのが見えた。そのあとを賀句さんが何かを大声で叫びながら迫って来るのが映る。きっと“裏口が開いてなかったぞ!”とか訴えているのだろう。しかし、こっちはそれどころではなかった。もともとジョニー・サンダースとのセッションは休憩後の第2部のステージでやろうと考えていたので、きちんとしたセッティングをしていなかったのである。しかもステージでは清志郎が ♪Stand by Me(私のそばにいて)♪なんて歌い続けているではないか。考える間も無くジョニーは「俺のギターはどこだ?!」とステージに上がり叫んでいた。
STAND BY ME / TEARDROPS with 忌野清志郎&Johnny Thunders@原宿クロコダイル1988.2.6
■撮影/藤井眞紀 & 佐藤ケンジ ■編集/佐藤ケンジ
ごちゃごちゃのステージは、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような有り様だったように思う。真面目なカズがこの状況を嫌悪している姿が映った。その時だ、青ちゃんが自分のアンプをジョニーに差し出したのだ。そうか! 寡黙に構えていたけれど、青ちゃんほどジョニー・サンダース好きな輩はいないのだ。
そう思ってステージを眺めていると、突然に肩を叩かれて振り向いた。そこにはチコヒゲが“俺も入れろよ”と笑っている姿があった。すぐに佐瀬のところに行き、チコヒゲとチェンジしてもらうと同時に『Too Much Junkie Business』のイントロが始まったのだ。
TEARDROPS LIVE AT CROCODILE 1988 (Johnny Thunders & 清志郎乱入) その二
■撮影/藤井眞紀 & 佐藤ケンジ ■編集/佐藤ケンジ
あれは、はるか遠く、一瞬の出来事だったように思う。みんな元気で、遊び盛りで、正義感があって、音楽で世の中が変わると信じていた頃の小さなステージだった。
嵐のような3曲を終えた清志郎は、ジョニー・サンダースと共に去っていった。いったい何処に消えて行ってしまったのだろう? 当時の僕らは狐につままれたような気持ちだった気がする。
『RCサクセション“COVERS”のレコーディング風景』
鳥井賀句/クロコの後、『COVERS』のレコーディングをしに、東芝EMIの3スタまで行くんだけれど、それがまた大変だったんだ。ジョニーのレスポール・ジュニアがフレット音痴になっていて、なかなかチューニングが決まらない。チューニング・マシンでやってもダメなのにジョニーがカンでやれば、決まる時がある。でもまた狂っちゃうということの繰り返しで時間ばかり過ぎていくんだよな。それと、ジョニーは曲なんか、きちんと聴いちゃいないから、ところかまわずに弾きまくったりしちゃってさ、話にならないんだよ。それで、チャボ(仲井戸麗市)の提案で、チャボがハンカチを上げたら弾いて、下げたら弾かないとかいうヘンテコなやりとりになってきた(笑)。それでも、ジョニーが弾く2曲はP.F・スローンの『明日なき世界 (Eve Of Destruction)』とジョニー・リバースがヒットさせた『シークレット・エージェント・マン (Secret Agent Man)』だから、ジョニーもガキの頃からよく知っている曲だっていうんで、要はタイミングの問題。それをチャボのハンカチに合わせたってわけさ。
Eve Of Destruction/RCサクセション
Secret Agent Man/RCサクセション
『ジョニー・サンダース追悼コンサート』
◉ジョニー・サンダースは1991年に4回目の来日をして、4月3日に『クラブチッタ川崎』公演を行った。ステージには忌野清志郎もゲストで上がっている。本当はこのとき、冨士夫も出る手筈になっていて、賀句さんはスマッシュにそれを伝え、冨士夫用のアンプも手配して待っていたのだが、当日の電話で体調が悪いと言われ、決局、清志郎一人が出ることになったそうだ。
その直後の4月23日、ジョニー・サンダースはアメリカ・ニューオーリンズのホテルの一室にて、オーヴァードーズにより急逝した。享年38歳、直前に来日公演を行ったばかりだったので、日本で稼いだギャラで大量のDRUGを購入したのではないか?という噂になった。
Johnny Thunders - Gloria ( Live in Japan Club Citta 1991)
Johnny Thunders - Sad Vacation ( Live in Japan Club Citta 1991)
ジョニー・サンダースのドキュメンタリー!映画『Looking for Johnny ジョニー・サンダースの軌跡』予告編
鳥井賀句/1991年、ジョニー・サンダースの追悼ライブ(川崎クラブチッタ)に、清志郎は“忌野清志郎&2・3’s(ニイサンズ)”としてノーギャラで出演してくれた。当夜の収益金は出演者すべてが、ジョニーが残した3人の子供の養育費に使ってもらうため、ジョニーの姐さんを通してカンパしたんだ。
冨士夫も快く承諾してくれたのだが、リハーサルに来ないから、「どうしたんだよ」って連絡したら、「ガク、ワルい、調子ワルいんだわ」って返してきたので、また始まったかと思って冨士夫の出番を削ってタイムテーブルを変えたんだよ。そうしたら、イベントが終わる間際にギター1本抱えて、例のごとくに現れて「演らせてくれ」って言うんだ。「いや、冨士夫、もうダメだよ、全部組み替えちまったから時間がないんだ」って言うと「2曲だけ、頼む、演らせてくれよ」って言われて折れたんだよね。それで『スカイ・ハイ』っていう冨士夫の曲を、天国のジョニーに向かってアレンジして演るんだけれどさ、これがまた想像を絶して良かった。
♪ジョニー、お前はよぅ!♪ってまるで語り掛けるように歌っている姿を観て、俺は思わず涙が止まらなくなっちゃって、最高に感動しちまったんだ。その時の録画が、VHSテープであるんだよね。確かどこかのMTVの番組用に撮影されたと思うが、結局その番組は没になって映像はお蔵入りしたままなんだ。何とか世に出して、いつか、みんなにも見せたいと思っているんだけどね。
■Johnny Thunders/日本公演■
■1985
1月31日/ツバキハウス公演
2月1日/ツバキハウス公演
2月3日/読売ホール公演
2月/原宿クロコダイルでシークレットギグ
■1986
7月7日/日本青年館ホール公演
7月8日/日本青年館ホール公演
7月新宿ロフト・アコースティックギグ
■1988
1月25日/日本青年館ホール公演
2月6日/原宿クロコダイル『TEARDROPS』に乱入ギグ
■1991
4月3日/川崎クラブチッタ公演
JOHNNY THUNDERS
※鳥井賀句/世界で45000回以上試聴されている、鳥井賀句が書いて歌ったジョニー・サンダース讃歌、英語バージョン
HALLUCIONZ(鳥井賀句)/ ジョニー・サンダース(日本語バージョン)
『エンディングとして/これから』
鳥井賀句/冨士夫とはその後も何かと付き合ってきた。これでも俺は随分と彼には貢献して来たと思うよ。話は尽きないけどキリがないからさ、今日のところはこの辺で。『皆殺しのバラード』だっけ、冨士夫の晩年を描いた映画。あれのエンドロールに俺の名前が載っているだけでもよしとするか。『SO WHAT』だっけ、アレに“鳥井賀句、ある時は最大の理解者、ある時は最大の敵”って書いてあるんだけれど、まぁ、それも、冨士夫らしくて面白いということにしておこうと思う。
ジョニーについてのエピソードは、この100倍はあるね。ジョニーだけじゃないよ。ジョーイ・ラモーンの痛い話や、イギー・ポップの非常識極まりないぶっ飛び話も俺の頭を回っている。何とか今年中には発表するつもりさ。
別にガキみたいな事言う訳じゃないんだけどさ、俺は誰にも媚び諂って生きたくないんだ。そして、俺は自分の過去の遺産で何かを構成したくもない。できれば、自分自身でも“えっ!”というような新しい書き方をしてみたいんだよ。そこが、俺が今、自分自身でも葛藤しているところ。エルビス(Elvis Presley)の歌った 『Blue Suede Shoes』なんかはさ、「何をしたって構わない、だが俺のブルー・スエード・シューズ(青いスエードの靴) だけは踏むなよ」って言う歌詞がある。
Elvis Presley - Blue Suede Shoes 1956 歌詞 対訳
歌を通して“ふざけてんじゃねぇよ!”とか、“バカ言ってんじゃねぇよ!”って言ってみても、実際の体制が改変されたり戦争が止むわけではないだろうけど、そういう気持ちを歌や音楽、表現活動を通して持ち続けることが、とりあえずの「意識革命」につながって行くことを俺は今も信じているんだ。
『ディラン(Bob Dylan)』や『ルー・リード』や『パティ・スミス』や『頭脳警察』みたいなモノ申すロッカーは決して消え去ることないと思うよ。ジョニーもディランをリスペクトしていてディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』や『ジョーイ』をカバーしていたしな。
Bob Dylan - Like a Rolling Stone | ライク・ア・ローリング・ストーン (日本語字幕ver)
これを自分で言っちゃおしまいなんだけどさ、俺は“ハードボイルド・ロマンチスト”なんだよ。どっちに行くかはその時になってみなきゃわかんないんだけどな(笑)。
◉そう言いながら、半酩酊の賀句さんは、カウンターの隣に座っていた知人の女性に問うた。
「なぁ、俺はどっちだと思う?」……って。
突然に話を振られたその女性は、多少戸惑いながらも……、
「ハードボイルドはないわね……。じゃあ、ロマンチストなのかなぁ」
と、二択しかないのか、という顔をしながら答えたように見えた。
鳥井賀句/!……まぁ、いいや。(気を取り直して)人生での俺の役割はさ、感動した歌を人に伝えることだと思っている。それは文章で伝えたり、下手くそな歌で伝えたりすることもあるんだけれど…。
だからこそ、これからも生きている限りロックでありたいと思っているんだ。
HALLUCIONZ(鳥井賀句) 2024
………………………………………………………………
◉「ジョニーが呼んでいるぜ!」という賀句さんからの呼び出し電話があってから、今年でちょうど太陽を39周したことになる。そう思うと大した数字ではないのだが、記憶の粒は星の数ほどに散らばっている。あの頃は目の前の景色を心に焼き付けるのに一生懸命で、とても視野が狭かったように思う。どこまでが遊びで、どこからが仕事なのかも解らずに、できるだけ自分が手掛けている日々を好きでいたいと思っていた。それは、賀句さんにしたらロックなのだろうし、環境や場面が変われば、もっとシリアスな話になるのかも知れない。
いずれにしても僕らは運命の磁気によって動かされ、くっついたり離れたりする。あのときはジョニー・サンダースという強力な磁力によって一点に集められ、それぞれの心に強烈な想いを残した。面白いのはその時点では見知らぬ同士でも、時が経てば同じ場所にいた者たちが、何処かで出会うようになるということである。
4時間に渡る賀句さんとの語り飲みには、たくさんのエピソードが散りばめられていたのだが、そのほとんどが触りだけで中身を確かめるには、あと10倍は呑まなければならないのかも知れない。いや、賀句さんふうに言えば100倍だろうか。でも、そんなに飲んだら語り尽くす前にこっちが朽ち果ててしまうので、“もっと聞きたい”くらいがちょうどいいのかも知れない、……と思うのだった。
いつまでもロックで、そして、ハードボイルドでロマンチックな人生を願っています。
第12話『ジョニー・サンダース台風の中での/山口富士夫と忌野清志郎』終わり▶︎第13話に続く
●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール
1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。
……………………………………………………
◉鳥井賀句LIVE INFORMATION◉
■★3月24日(日)『SONG SPIRITS vol60』
@高円寺ムーンストンプ
1500円+drink
18時半開場/18時45分開演
●出演
✡️鳥井賀句&YOZI(G6Y)
✡️FUJIYO
✡️ZUCCO
✡️大関ジュンコ&佐藤智彦
■★4月19(金)『地下室のメロディ』
@CLUB DOCTOR 荻窪
前売り2500円/当日3000円+drink
18時半開場/19時開演
●出演
✡️THE VODKA
✡️HALLUCIONZ (鳥井賀句)
✡️ DISAGREE
DJ鳥井賀句
……………………………………………………
◉藻の月LIVE INFORMATION◉
■★3/2(土)新宿UNDER GROUND
Azzitto1224【Ride On Baby】
【Soul to Soul Vol.3】
●出演
✡️藻の月
✡️Yuzo Band
✡️ THE BLOODY KNIFE
✡️ THE SHOTGUN GROOVE
OPEN 17:00/START 17:30
¥3000+order
……………………………………………………
■★3/22(金)国立/地球屋
●出演
✡️藻の月/他
※詳細は決まり次第告知いたします。
……………………………………………………
■4/19 fri.『 高円寺SHOWBOAT』
"降りしきる夜"at 高円寺SHOWBOAT
●出演
✡️藻の月
✡️DEEPCOUNT
✡️ PIGMEN
✡️ Froor DJ: DEEPCOUNT
19:00open/19:30start
2500YEN/2800YEN/+1D
……………………………………………………
【Cocksuckers / Live At Shibuya Yaneura 1983】3/13 OUT!
70年代後期、東京のアンダーグラウンドシーンを駆け抜けた『自殺』のヴォーカル川上浄が後にウィスキーズ等で活動するジョージ等と組んだ幻のバンドの未発表音源が遂に!
Cocksuckers "世間話"(from "Live At Shibuya Yaneura 1983"[2CD])
……………………………………………………