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沢木耕太郎さんの『天路の旅人』を読んで


 このノンフィクションは第二次世界大戦中、密偵として中国奥地に入り、終戦後そのまま日本に戻ることなく中国奥地、チベットなどを蒙古人巡礼増(ロブサン・サンボー)として8年間、旅を続けた西川一三(にしかわかずみ)氏の膨大な手記を元に書かれた小説だ。
 小説は沢木氏が緊張しながら西川一三氏に会いに行く場面から始まる。西川氏はインドでつかまり、日本に強制送還されてから、盛岡で理容美容材卸業を営んでいた。1年364日働く。休むのは元旦1日だけだ。9時から5時に仕事を終え、近くの飲み屋で日本酒を2合飲む。つまみはとらない。それを89歳で亡くなるまで続けた。途中テレビ出演などの依頼があったが応じることなく静かに生涯を終えた。沢木氏は西川氏に初めて会ってから25年経ってようやく「天路の旅人」を完成させた。「すでに西川氏が本にまとめているものを、今更どう書いたらいいのかわからなかった」と言っている。段ボールいくつにもなった原稿用紙を整理しながら何年も思案していたという。
 574頁の長い小説は西川氏の8年間の旅を淡々と描いたものだ。ノンフィクションなので当然沢木氏の思いはどこにも書いていないし、西川氏の感情もほぼ書かれていない。読み終えて初めて、序文の1年364日働いて生涯を終えた西川氏が浮き上がってくる。
 以前から巡礼でチベットに向かう人々はなぜ過酷な旅をするのか、なんとなく気になっていてこの本を手にした。理解できたわけではないが、ぼんやりと影が映ったような気がする。
 旅は明日の命おろか、はたして今夜自分は生き延びることができるのかさえわからない。ヤクの糞を大切に乾燥させ燃やし、少しのお湯を沸かして、暖をとる。標高5千メートを超える山で、零下20度にもなる場所で寝袋はなく、テントすらない夜を過ごす。山賊、寒さ、酸素の薄さ、空腹などにおびえながら、身体全体に降り積もる雪に覆われて、身体を縮こめて眠る。そこでは動物も人間もまったく同じ環境だ。過酷な旅の持ち物は厳選しなければならない。少しの乾燥した食べ物と水。そんな旅を続けていると、人間が生きるために必要なものは、たかがしれていることを身体に刻みつけることになるのかもしれない。多くの物を持っても逆に旅の妨げになり命を落とすかもしれない。今夜を生きのびなければならないとき、人間はすべてを手放す。物はもちろん欲や煩悩も手放す。常に物と命、どちらが大切か、究極の選択しながら旅を続ける。ヒマラヤを何度も超えているのに、景色がきれいだとかそんな場面はほんのわずかしか出てこない。これほどまで人間を「無」の状態にするのは豊かな現代では難しいのかもしれない。西川氏は特にチベット仏教を学んではいない。過酷な八年に及ぶ旅が、その後の364
日働く生き方に導いたことは確かだ。
欲と無縁の人生。もちろんそんなことはどこにも書いてはなかった。


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