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現代の空虚 願う未来

私はこの2年間、うつ病とは別にノイローゼを経験することがありました。それはなぜか他者に怨嗟感(えんさかん)を感じるというものでした。そしてその根本性質は、「他者が自分の言うことを聞いてくれない」ということだったのです。

しかしながらよくよく考えてみれば他者とは絶望的なまでにコントロールができない存在です。ましてや私なんかの力量で、他者をコントロールすることはできない。たとえ支配下においても、暴力を振るっても、殺したとしても、その人の心だけは奪うことができないのです。

私は何度も起きるノイローゼにはたと立ち止まり、考えさせられました。またそして、そのノイローゼは何か突発的な、予期せぬ災難だと思っていましたが、よくよく考えると自分にとって大切なメッセージを伝えてくれていたのだ、と理解しました。

私がいきなり他者を尊重できるようになるかは分かりません。しかし少なくとも、他者をコントロールをしようとは、もう思いません。またそして、その他者と自分の区別がついていないのは、私の親が他者と私との区別がついていないのです。ハッキリ言って、キモいです。本当に気持ち悪い。正直何か性的な虐待をされたような気持ちです。

つまり私の親が自分のことを自分と変わらない人間と思っているので、私が必然的に私と関わる人とも他者従属、コントロールの支配関係を作ろうとしていたのだ、と理解できるのです。

やはり、最後の最後まで関わってくるのは親でした。

私は毒親の遺伝を、非世代性の伝播(ひせだいせいのでんぱ)と言ったりしましたが、それはつまり自分を愛せない人間がずっと生まれ続けること、ということです。

つまり私の父親も母親も自分を愛せていなければ、私のばあちゃんも自分を愛せていないのです。世代間で愛のない孤独は伝播し、それが永遠と未来の子どもたちの夢を摘む、という流れです。

私はこれらの現象を「結構な破壊的だ」と思います。かなり破壊的なのです。愛がないということはほぼ殺人と変わりません。現に親から気持ちを殺され続けた子どもだけが、自死をするか人を殺します。そこには愛がなかったのです。

街を歩いていても、電車で俯く人たちを見ていても、そこに冷たさがある気がします。見た目は老けているけれど、心が冷たいままの人たちが多いです。

壮年期でさえ、冷たいです。

なんなら、壮年期が一番冷たいかもしれません。

40代、50代、60代の大人が、その心が、限りなく冷たいのです。

そう考えると今の子どもたちはとてもよく頑張っている、と思います。そもそも生きる意味なんてないこの世界で、何が何だか訳がわからず、恋愛などをしているのですから。

現代は空虚になり、冷ややかになりました。もう国際社会などとは言ってられるものではありません。そもそも他者と自分の分別もつかず、気にするのは自分の社会的体裁、つまりは「いい上司と思われるかどうか」だけなのですから、それはコミュニケーションと言えるものではなく、パフォーマンス、に近い形となっています。

パフォーマンスは自分が注目されたい、ということですから、もう大人の精神の低年齢化がかなり進んでいるのだ、ということになります。

そして社会的体裁だけを求めて仕事をする人たちは、皮肉にも退職をするときれいさっぱり忘れられる、という性質がある気がします。それはなぜなら他者とのコミュニケーションをしなかったのですから、つまり業務内容の遂行という実にコンピュータ的な作業のみで退職したのですから、何らのちの世代の人の心に生み出したものはなかったからです。

つまりは情緒の深化、心の育成などは置いといて、そこで必要とされたのは「その仕事がその仕事通りに進むかどうか」だったということです。故にそこに残るものは「それでも仕事は減らない」という絶望的なオチだけなのです。

職場で休職者が出る、これほど喜ばしいことはないように私は思うのです。なぜなら休職は本人が「行き詰まり」を感じたのですから、その本人の根底の部分の価値観が一新されるチャンスを秘めた勇退だと思うからです。しかしこともあろうか立派な社会人たちは、人の心の成熟などは見ておらず、やはり見ているのはその会社が動くかどうかだけ。そもそも原理的に行き詰まりを感じない彼らにおいて、行き詰まりを感じている部下の心情を理解することができないのだと思います。

これは単に大学生が言っていることです。非世代性に生きる1人の若者として、ささやかながら問題提起くらいはしとかなければならないな、と思い書いています。

この日本はおそらくこれからも空虚になるでしょう。生きる意味は色褪せ、会社が会社として動くかどうか、それだけに注目がされるでしょう。またAIのシンギュラリティによって、単なる業務遂行だけを仕事としていた世間体を気にする大人たちは絶望することになるでしょう。皮肉なことにコンピュータという利便性を兼ね備えた脳は、利便性とは一線を画する情緒的で自然的な人々の心を浮き彫りにするということです。空虚になる現代は、その空虚を塗り替えてしまうコンピュータに取って代わられます。コンピュータよりコンピュータ、な人間は自分の心と向き合わざるを得なくなります。しかしそれでいいのだと思います。なぜならそれをしなければ、真の意味でその人は絶対的に満足して生を終えることができないからです。別にコンピュータと変わらない存在だった、と言い残して自分の死を迎えるなんていうことは、まさに絶望ですからね。やはり私たちは人間という実存的な生物の心について理解をし、その尊厳を理解したいと思います。これから訪れる社会の変化は、少なからず人間の空虚さに対する暗喩を呈すると思うのです。

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