前から言ってる通りそのまんま
構造的な問題ですが、現に自分のブログがどのように人の目につき、その人が何を思い、どのように影響を与えれたのかを私は知りません。そしてスキとしてだけいただける評価に、日々励まされて記事を書いています。
私の今の悩みは素直に自分で稼いでいけるか、ということです。そのことだけをずっと悩んでいます。生きていくだけのお金を稼げれば、それでいいのだと思います。しかし現に今は月1万円ほどしか稼いでいません。バイトを増やそうと思っています。そしてなぜこれほどまでに生きていけるかを考えているのか、と思います。
おそらく18歳の時、私が不登校でニートをしていた時、初めてやったバイトが引越しのバイトでした。その時にこっぴどく叱られた。何せ何もできない新入りですから、ひどく叱られました。それがかなり痛烈にショックだった。そこで私は「社会はこんなにも厳しいところなのか」という念を深めたのだと思います。
でもどうだろう、あれから5年近くが経って今世間を見渡してみるに、どうやら引越しをやっていた人は、あの上司は、その怒りは実に突発的なものだったのではないか、と思えてなりません。私は過去の記事でノイローゼの根本原因は他者の表面的な突発的な怒りを、あなたの深い感受性でもってつまり地下水脈のような心でもって捉えてしまうから、そこにアンバランスが生じて、深い自己否定感を育ててしまうのではないか、と言いました。そのことから深く考えてみるに、私はあの現場で私を叱ってくれた上司は、ほぼ9割において突発的な怒りだったのではないか、と思えてならないのです。
そうはいっても社会に出るのがとても怖かった。自分なんて社会で働けるとは到底思えない。そこのところから私は創作をしていました。私は社会になんて出れない。せめてこの劣等、劣った自分でできることはないか、そう考えて創作をし続けてきたのです。
私が創作をするのは社会に出るのが怖かったから。たったそれだけでした。
でもよくよく考えてみると、私がやった創作はだいたいの人全般を対象としている創作です。経営者でもアーティストでも、そこに何がしかの示唆を受け取っていただけるようなものに結果的になっているのではないか、と思います。なぜそこまで豪語できるのかと言いますと、私が経営者とアーティストを真剣に考えていたからです。あるいはそこから限りない影響を受けて育ったからです。
この劣った私で、経営者やアーティストの放つ言葉に魅了されて生きてきたのです。その言葉に夢を見て生きてきました。自分はなんの取り柄もない人間ですが、その真似事をせずにはいられなかったのです。
ただもっと深掘りすれば、一つの未来予知はそこまで未来のことを考えなくてもよかった、という結末になるのだと思います。単にコツコツと記事を書いているだけでよかった、そうなるのだと思います。
つまり私の行動の本質は、世の中の理不尽をバカにする行動です。世の軽薄さを告発する表現です。だってなぜなら、社会に出れない人が社会に出てる人の示唆になる記事を書いている、このことは一つの矛盾ですから。だから私はこの世界の矛盾を訴えているのだ、そう思います。
私は個人的に子どもたちが精神障害になるのは世間が矛盾してるから、だと思います。世間が矛盾、歪みを帯びていなかったら、子どもたちの心も歪むわけがないですよね。もしまっすぐに世界が成り立っているのだとしたら、子どもたちもまっすぐ育つはずです。
私の父親は私が小さい頃それは熱心に教育しました。その時の父親の目はギラギラしていましたね。キラキラではないですよ。ギラギラです。それは簡単なことですよ、「俺の価値の息子」それだけです。
私は父親から習字の稽古をつけられた時とか、一緒に将棋をやって負かされたときとか、父親にスキーを手取り足取り教えられた時とか、いつも泣き出しそうでした。すごいプレッシャーで、死にそうだった。泣きたくて泣きたくて、しょうがなかった。父親と何かをやって楽しかった、と思ったことは一度もありませんでした。
そうして熱心に教育を施した挙句、私は不登校になりました。そして私は色んなことを親に聞かなくてはできない子どもになりました。それも当然、親があれこれカリキュラムを用意するのですから、私の自然な好奇心なんて度外視、私は親の指示に従うしかないからです。そして依存的になるわけです。
なのに私が思春期になった頃父親は「それくらい自分で調べろ」と言いました。
それまで手取り足取り自分の自己実現を子どもに押し付けて教育していたのに、自分で調べろ、と言ったのです。子どもの芽を摘んでおいて、子どもに芽を出せ、と言ったのです。
私の自殺未遂はただこの矛盾一点にあります。
この圧倒的矛盾、圧倒的軽薄、圧倒的愚か、圧倒的空虚が、私の育った世界なのです。
じゃあ私が大学に行きたくないのは簡単ですね。
もう世間と関わりたくないからです。
それだけなんですね。
あなたに何も罪はなかった、と過去の記事で書きました。本当にそれだけなのですね。
社会不適合の本質はその人が適合するだけの"社会"と言えるものがそこに絶望的になかったから、ではないかと思いますね。やっぱ何の罪もなかった、ということですね。
私は怒りをずっと昔から持っていますが、何故人を殺していないのか分かりません。これも過去になぜ人を殺してないのか分からないという記事を書いていますね。
すべて、すべて、言った通りなのですよ。
すべてそのまんまなんですよ。
すべてそこに終帰しているのですよ。
もう分かりきったことなんですよ。