綺麗で人見知りなそれでいて美しい感性
人が人から教えを聞く、人が人から教えを乞う、そういう機会を私はよく見てきた。
そんな中で非常に鋭い感性を持つ方、そのような方は厭世観を持ってはいるのだけれど、そういう人は世の中を見つめているため、非常に鋭い的を射た発言をする。
ただそのような人が目上の人に教えを乞う時、それは鋭い感性ではいるが、その人が自分に自信がない、ここのところから非常に謙虚な、と言ったらいいのか、へりくだるような形になる。
ここがあまりに美しい人間のバランスである。
本当の意味で生きる意味を求めている鋭い厭世の彼らは、そういう教えをくれる人が目上の時、若干へり下り、時として望ましい解答が貰えなかった時も謙遜をして感謝をしたりするのだ。
これを美しさ、バランス、綺麗と言わないで何が該当しよう。
私は鋭く、賢く、それでいて厭世観を持っていて、人見知りなそんな人を見てきた。
彼らはあまりにも綺麗すぎる。
か細い青年少女、この言葉が現代では使われるようになったが、
それはおそらくこれほどに彼らが綺麗だからだ。
おそらくだが、その彼らの意見を、その彼らの欲を大きく育てる、そうすると予想もしていなかった幸福が、それは本人として以外にも、社会に波及する。
教えを授ける人よ、鋭さと太さを持つ人であれ。
繊細さと深みを持つ人であれ。
そうして美しい人たち、あなたの感性に磨きをかけろ。
そうすれば、この日本は鮮やかだ。