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悪人 謙遜という言葉の手垢、そして商売(うつという病理に関連して)

浄土真宗では、悪人正機(あくにんしょうき)と言って、阿弥陀仏の救いの対象は悪人である、と説かれます。

しかしながらこれは「悪いことをすれば助かる」という意味ではありません。この言葉をよくよく噛み締めると、「自分は悪人だという省察を含んだ人こそが仏にふさわしい」という捉え方ができるのです。

またもっと突き詰めるならば、私たち悪人は絶対的に仏にはなれるような存在ではないが、それを阿弥陀仏という仏の光明によって、未来仏に生まれ変われるというありえない救いがあるのだ、それこそが阿弥陀仏の本願である、と聞きます。

ただ私はそのような宗教的次元には至っていませんので、今回は「自身を悪人だと自覚する省察を含む人は救われる」という段階の捉え方をしたいと思います。

そしてまた、これは人間関係、もっというなら仕事の上で大切な姿勢だと思われます。

先日、塾でバイトをしている時に塾長さんと月謝を持ってこられた保護者の方のやり取りを目にしました。

そして感じましたのはそこには謙遜一つ、しかなく、お互い私心(ししん)がない状態、でした。そしてこれが商売か、と思いました。

このようにお互いが謙遜と言いますか、つまるところ取引先の方にご愛顧いただいている、という謙虚な気持ちがお互いがあるからこそ、一つの商売が成り立っていることを感じさせられました。

お互いがおかげさま、とんでもございません、この精神で働くゆえに、そこは無私の世界となります。そうして商売が成り立っているのだ、ということを感じたのです。

ともすれば私たちは私心(ししん)が入ってしまいます。それをもっと心理学的に突き詰めるならば、一つその人が「心で自分自身を解消できていない」というところがあります。無論、過去の私もそうでした。

つまるところ機能不全が機能不全と言われるのは、このように自愛不全により、そもそも自分が生きていない手前、無私になれない、というところがあるように思います。

もっと突き詰めるならば、自分を愛せてない、この状態が逆に私心(ししん)のある状態なのです。つまりはその人は欲が大きいのではなく、欲が殺されているのだ、ということです。

つまりは休職者や行き詰まりを感じた人に対してかけられる言葉は、ぐっとその人の内奥から起きる変化を待ってあげる肯定の言葉、待っているよ、という意思表示であり、もっとちゃんとやれ、ということではないということです。

欲が殺されている状態が自愛不全でありますから、むしろ休職や行き詰まりは好ましい現象、とまで言えるでしょう。

自愛不全、つまり私心がある人はそのモチベーションは利他、つまりところここでいう謙遜というような商売ではなく、パフォーマンス的な、つまるところ己の自己実現的動機に基づきます。それと同時にこれはかりそめのモチベーションであるため、長続きがしません。ここがうつの原点である、と言えます。

つまりはうつというものの本質は明らかにかけられた理不尽であり、一つの殺しであり、人間の原動力である欲の否定、です。

欲を殺されるわけですから、生きることを否定されることそのものです。ゆえにその反動として死にたい、と思うようになるわけですが、これは過去の私も含めて死にたいと生きたいは同義です。殺され続けた結果心身症を発している、ということです。

話は戻りますが浄土真宗では自力と他力、という概念があります。これは少しその本質とはずれた発想かもしれませんが、

このうつの途上にいるかりそめのモチベーション、自己実現の動機で働く人は自力的(じりきてき)な働き方、と言えます。それはつまり何かもっと力をつけ、能力をつけ、何かで自分を塗り固めて強くならなければ、という思考になります。

一方で私が先ほど先述した謙遜のビジネス、つまるところ私心がない仕事というのは、完全に「相手とのやり取りに任せた」仕事です。つまりその場で交わされるコミュニケーション、その自然発生的な意思疎通そのものに焦点が置かれているため、自分が何かコントロールする、という「意図」がありません。これを他力的(たりきてき)働き方、とします。

精神科医の泉谷閑示(いずみやかんじ)先生の著作に、示唆に富む発言があります。

それはアイデンティティ形成に関する話なのですが、行き詰まる人、とりわけ心身症を発しやすい人は自分の自己形成を塑像的(そぞうてき)イメージで捉えている、と言われます。塑像的(そぞうてき)と言いますのは、何か物をつけたし、粘土を固めるように自己形成をしていく、力をつけていく、ということです。

しかし泉谷先生の思う自己形成はそれと対をなすものです。それは彫刻的自己形成なのです。つまりもともとある粘土から余分なものを削り取っていって、その中に眠る真珠を掘り当てる、というような引き算的思考なのです。

そしてこれが私の言う自力的働き方、他力的働き方、に該当します。

つまり自力的働き方は、自力、なのですから、己一人で仕事をしているわけです。つまるところそれは本来の意味でコミュニケーションではない、ということです。

そして他力的働き方は、他者と発生する自然的な予測不可能な生産、親密さを信じている姿です。つまりはそこには他者が存在し、他者とはコントロールができない、存在なのです。ゆえにこの他力的働き方ではその都度その都度起きる生産性があり、昨日と今日で違ったものが生み出される、ということです。ここが仏教でいう諸行無常(しょぎょうむじょう)、つまりはすべては移り変わる、ということの本質的な部分なのです。

このように、働き方にはおおまかではありますが自力的働き方と他力的働き方が存在し、自力的働き方はパフォーマンス的発想の働き方ゆえにそこに他者が存在せず、また心身的な不調に陥りやすい、なぜならなけなしの努力を課せられる禁欲的働きかたであるため、ということになります。一方で他力的働き方は相手との間に巻き起こる"新たな生産"を信じているため、そこに塑像的な、つまるところコントロールがありません。コントロールがないゆえに、自力がない、つまりは無理がかからず、その活動は永続する、ということです。

このような心のメカニズムがあり、またそして、私がかねてから言う非世代性(ひせだいせい)、毒親(どくおや)の問題は、この塑像的イメージで自己形成を捉えているパフォーマンス型の人間である、ということなのです。

私はその人たちは孤独である、という表現をしますが、それはこのパフォーマンス的発想、自力的働き方ゆえに他者とのやり取りにすべてを任せられていない、というところに由来するのです。

ここを治癒するためにカウンセラー、精神科医は存在し、社内不適合や行き詰まりが起きるのです。

つまりはここでいう謙遜の商売、その謙遜の内実は、自分の欲を殺して控えるものではなく、"自分があるからこそ"、他者を信じることができ、その結果として無私(むし)の世界となり、控えめに見える、商売が完成する、ということなのです。

つまりは謙虚に控えめに、という先人の知恵は、自分という存在への回帰があるからこそ、できることなのです。

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