欲張って生きたい
3人のLINEグループにて
(誕生日に加湿器を買ってくれた友人A)
「Aoy誕生日ですよ。」
(友人B)「ほんとじゃねえか。」
(友人A)「何か欲しいものはあるのかね。」
(自分)「え、加湿器とか?笑(ふざけ)」
(友人A)「だとよB」
(自分)「おっとちょっと待ってくれ。」
(友人B)「わかった。最高級のやつ買ってやるよ。」
(自分)「カビ生えちまうって。」
尊敬する心理師さんがいて、その方の発信をかれこれ3年以上、継続して見ているのだけれど、その方が言うのは平和に幸福に生きる人はだいたい落ち着いている人、という発信をされていて、
そしてそのような方の代表格としては「他人を褒めることができる人」と言われている。そしてそういう人は心理学をしっかり学んだ人だったり、ある程度社会的地位を確立してしまった人が多いです、と発信されていた。
3年前の19歳に聞いてもちっとも意味が分からなかった。無論今も無名も無名、夜間部と放課後で時間が合わないので土曜しか出れない塾のバイトで、数少ない娯楽費を稼いでいるわけだが、ただ学んでいる仏教や数々の先人たちを見させていただいている中でその意味するところが分かってきた。
これはもう以前夏にも触れていることだけれど、結局のところ自分で自分の生計を立てることができるのならば、大体において、というよりほぼ完全に私の生き方の目的は達成される。
個人的に患っていたうつや行き詰まりはそういう社会的体裁を抜きにして、生きる意味とは何かとか、倒錯的価値観を振り翳す世の中への告発とか、そういう内面的な求道があるけれど、
結局それは行き詰まった、不調が現れた、というのは、一言で言えば「無理がかかった」ということで、一連を経験してきた身としては「そりゃうつになるでしょう」というのが(これは責めてるのではなく、共感という意)、私の言い続けていることであり、
結局のところうつの人が誰よりも頑張った人であり、それは比較相対とかいう意味ではなくて(もちろんそういう人たちは相対的にも相当な努力家だけど)、無理というのは「理(ことわり)が無い」と書くのだから、
そりゃ一生苦行みたいな努力信仰を不運にも意図せず掲げざるをえずに、不当な労働を強いられてきた人たちは、そりゃ無理というのであって、
理(ことわり)が無いのだから、そりゃ病気になる、病気ってやまいだれがかかっているけれど、無理なことやれば病になる。通常ではないのが、病であると思う。
長くなってしまったけれど、そういうのを乗り越えた身としては、あとは自分で自分の生活を担保できるか、ということのみ課題であり、
そのほかの哲学的主題とか、生き甲斐とか、生きる意味とか、
平易に言えば朝起きて飲みたい飲み物や、体育でのあの友人の何としても私を殺そうという気概とか、町のフェンスと夜空が合一していた時にじーんとしちゃうとか、いやぁこの推し可愛いなぁとか、そういうのが感情に伴う心の浮き立ちであって、
これほんとにただ暇潰してるだけだろ!と言われそうなのだけれど、
そんなんじゃなくて、本当にこういうことを感じているのが幸せだし、楽しい。時としてすごい幸福すら感じる。(違法なやつはやってない)
欲を大切にしたいと言っているけれど、それはこういうふとしたとこから起きる感慨そのもので、ただそれは色々悩んで、自分の思ってることはわりかし間違っていなかったって知って、それで自分で自分を愛することができたから、そういうなんかいい感じの感情を感じる。
時として自分の思いが間違いではないと知るためには、あたたかく抱きしめてくれる人が期間限定的に必要とは思うけれど、お世話になったスクールカウンセラーも高校の教師も尊敬している精神科医も、
みんな君の思いを聞かせてくれと言ってくれたようなもので、
それで自信を回復したから、恥ずかしい厨二病みたいなつぶやきや創作をずっとし続けてきた。
多分少なからずの人からは嫌われていると思う。
とんでもない量色々書いてきたから。
でも結局のところ、それが一番自分らしい。
進んで嫌われろ、とは誰にも言わないけれど、
思ったことを発信して、自分を受け取って、そして受け止めて、そしてまた一歩を試行錯誤して歩んで、世界の捉え方を自分で変えて、
それをした末に色々な人からも批判が来てっていうのならば、
私はそのような人が本気で美しいと思う。
もちろん他者を中傷しろなんて言わないし、というかどちらかと言えば中傷されてきたからうつになってるわけだけど、それを乗り越えた一個人の青年少女、あるいは成人壮年老年の方が、その人だけが自分の心の内と世界の残酷さと、それと対照する世界の美しさを人知れず深い顔で認知する時、それは誰にも理解されないことかもしれないけれど、その真の意味での一匹狼は何よりもかっこいい一匹狼だと思う。
そしてまた結局のところそういう人のことを、本当に眼を持つ人はほうっておかない。
話は長くなってしまったけれど、結局のところ、
こうやって文章書くのもいつか文章を書く仕事をしてみたいからだし、演劇で脚本書くのも表現活動の真髄を知って、何なら先輩方と会って可能性を広めたいからだし、音声配信するのもいやうつはうつでうつになるわって、明らかなことを言ってるだけだし(いい意味で勇気づけたくて)、仏教学んでるのも諸行無常(しょぎょうむじょう)すべては移り変わる-これらのドラマが実は有限でぶっちゃけていうとエモいっていわれるのに感動したから学んでいる。
欲張って生きたい。
人にああしろ、こうしろとは言わない。
ただ自分がこうしたい、ああしたい、ひたすら悩む。
それに誰かが結果として影響を受ける。
人の心の派生の歴史って、そういうメカニズムではないだろうか。