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X(Twitter)的男女論
1. 誰もがこの世界に虐げられている
1) 恨みの連鎖、これぞX
「日本のオス、キモすぎ。」「おバカなマンさんwww」「男は性犯罪者予備軍」「女さん、こんな簡単なことが理解できない」
X(旧Twitter)を開けば、たとえフィルターバブル(XやInstagram、Amazonなどのプラットフォームが自動で利用者の情報を集め、プロファイルすることで、特定の情報の”泡”の中に利用者を閉じ込めてしまう構造)のかかっていないアカウントであっても、ことあるごとに上のような投稿を目にすることだろう。それもそのはず、日本Xの投稿を占める二大巨頭は、ネタツイートと男女論なのである。
私は、この小さな媒体で、小難しい男女論を展開したいわけではない。誰も見ていないようなこの小さな場所で、男女の間の、最終的には埋められないかもしれない深い溝を、出来うる限り埋めてみたい。
2) 前提として
第一に、私は20代の男である。身体的にペニスをもっているし、性愛の対象はヴァギナを有する女性である。社会的にも男として振る舞うことを求められて育ったし、戦争で肉壁としての役割を果たすには十分な体つきをしている。
第二に、ここで最も重要になるだろうことは、私は特別な前置きがある場合を除いて、常に男女のどちらかの性を「正しい」「悪い」「被害者」「加害者」といった言葉では形容しない。なぜなら、目下のXで巻き起こる男女論争は、いつもどちらかの性別や属性を「絶対的な加害者」「絶対的な悪」として、もう片方の性別を「絶対的な被害者」「絶対的な正義」とすることに精を出し、そこに快感を覚え、視野狭窄に陥った結果、悪い方の性別に一方的な責任と改善要求を突きつけて、物事の姿を見誤らせ、なんら生産性のない(誰も救われることのない、誰の役にも立たない、ルサンチマン的に自分の性別を肯定するのが精一杯な)議論に終始しているからである。私は常に、ある状況を産んだ経済、社会的な状況、いわばソフトではなくハードの面に目を向け、特定の誰かに責任をなすりつけることは極力控えたい。この世界で生きるにあたって、男が楽ということもなければ、女が楽ということもない。確かに楽な男と楽な女は存在しているが、それは男だから、女だからということに尽きるものでは全然ない。
第三に、私個人の立場は、ホモソーシャル的な世界を冷ややかに眺めつつ(批判的視点は常に欠かないよう気をつけつつ)、それでもなお肯定しようとする。これについては後々語ることもあるだろうから、今は飛ばしてもらっても構わない。
第四に、この議論は、私個人が勝手に一人で展開しているものである以上、認識を誤っていたり、男側からの視点に知らず知らず寄ってしまったりすることはありうる、というか自然なことである。だから、私はここで、あくまでも一つの思考の可能性を提示しているに過ぎず、常に新たな解釈や論点に開かれているものと捉えていてほしい。
なお、この投稿における無断転載や複製等はお控えください。
3) 構成
今後の構成をざっくり並べると、以下のようになる。
Xで巻き起こっていることの不毛さ。
女性の辛さ。
男性の辛さ。
真に敵対するべきものは何か。
アンフェはフェミニスト、ツイフェミはアンチフェミニスト。
2. Xの男女論の姿と不毛さ
さて、Xを開こう。匿名の、作りたてのアカウントで十分である。検索画面を開いたら、「日本人男性」「日本人女性」と打ち込んでみるのが面白い。突然ケンタ食堂みたいな話し方になったことはさておき、そのまま上下にスクロールすれば、その属性を貶す投稿が一つや二つ見つかるのではないか。
さてさて、その投稿たちに次々といいねをつけてみよう。するとフィルターバブルが形成されはじめる。するとあら不思議、一週間もしないうちに、タイムラインは男女が互いに互いへの怨嗟を吐く地獄へと変わってしまうのである。
それでは、Xの男女論の不毛さについて考えてみよう。
1) スマホの画面ばかり見て人の顔を見ない不毛さ
一度、大昔に、嫌韓、嫌中の罵詈雑言が飛び交うオープンチャット(LINEの機能)に参加したことがある。いわゆる、ネトウヨたちである。ネトウヨたちに「なぜ中国人が嫌いなのか」「なぜ韓国人の全てが病気だと思うのか」と尋ねると、決まってネットニュースの記事が貼り付けられる。そこには”或る”中国人が起こした事件や、”或る”韓国人が起こした事件が語られており、彼らは「だから中国人(韓国人)は〜」「中国人(韓国人)がこうなる原因は〜」と荒唐無稽な結論と根拠を開陳する。Xの男女論も、はっきり言ってネトウヨたちと相違ない。議論に勤しむ当人たちの心の動き、思考の仕方、本質的、形式的な部分は何も違わない。
しかもSNSは、鍵アカウントを作成したり、共通の認識を有する人間たちだけとフォローし合ったりすることによって、不満や偏見を何重にも強化し、自分だけの正義空間を作り出すことができるので、独断と偏見を快適に再生産し続ける地獄である。そういう場合、痛いところに釘を刺される経験が浅くなるので、反省もしなければ自分の正義を疑ってみる癖もつかない。かくして、自意識と自尊心の過剰な、フィルターバブル引きこもり人間の精神構造は、現代文明が産んだヘドロに近い。
自分が今、属性を理由に擁護している奴は、実際に顔を合わせて話をしてみれば「なんだこいつ、お前にもだいぶ非があるだろう」となるかもしれないし、属性を理由に貶している奴は「こいつにもこの行動に至った、同情すべき理由があるではないか」となるかもしれない。
もちろん、その気持ちと法律とは切り離して良い。同情しつつ、厳罰を求めることも、軽蔑しつつ、減刑を求めることも誤ったことではない。とにかく、こと男女論に至っては、このような心のブレーキがきかず、不足した情報を勝手に補っては、過激思想を展開する大馬鹿者人間が多すぎる。
これを解消するには、SNSを一旦閉じて、外に出て新しい人々と関わる経験を積みなさい、学術的に精査された本を読みなさい、としか言いようがない。Amazonからおすすめされる商品を買って「世界が広がった」と確信するより、せめてショッピングモールや本屋にでも行って、今は買えないキャンプ用テントの中に座ってみたり、買おうとも思わなかったキッチン用品をみて想像を膨らませてみたり、想定外の本を手に取ったりするのがよい。しかし、これをするには金と時間が必要なのだ。
2) 自分”たち”こそが正義であるという不毛さ
あらゆる媒体でさまざまに煎じられているように、正義を確信した人間ほど野蛮なものはない。本来の意味での確信犯である。
X男女論においても同様に、自分の正義化を目指す論客たちが日々しのぎを削る。正確には、自分の属性、性別の正義化を目指すわけである。ここに第一の不毛さが存在する。「精神が落ち着いた女性もいる、むしろそれがほとんどである」「性犯罪をしない男性もいる、むしろそれがほとんどである」、そういうことを言われればわかっているのに、少ないサンプルを、大した精査もなしに過度に一般化して、属性全体の特徴と括ってしまう。いわゆる主語デカというやつである。不思議なことにSNS上で「女は〜」「男は〜」と日々不平不満を垂れていると、主語が知らず知らずでかくなっていることに気がつかない。気がつかないというより気がつきたくない。気がついてしまっては、後述のように、自分の立場が危うくなるからである。
結局、私が言いたかった第一の不毛さとは、主語をデカくすることによって、誰にでも当てはまり、誰にも当てはまらない意見を生み出し、しかもその偏見を何重にも強化してしまうことで、現実を受け止めたかたちでの男女同士の理解はおろか、自分からその溝を深くしてしまうことである。
そこでは、自分たちの性別や属性が、別の性別や属性によって虐げられている被害者であり、加害者は悪である。別の性別や属性への不平不満が「かよわく、清く美しく、かわいそうな、そして絶対に正しい私たち」を作り上げるやいなや、相手の性別や属性は「罵ろうが叩こうが構わない、絶対に誤った奴ら」となり、たとえ清廉潔白な人間であろうが、その属性の一員であるがゆえに、それをいじめることは正当なのである。だから、とにかく自分が一方的に攻撃するためには、自分がかわいそうな被害者になることが絶対条件であり、そのためには手段を選ばなくなる。正義中毒の不気味なゾンビ、被害者帝国主義の完成である。
3) 正義とか悪とかデモクラシー
俺(私)は正しい、そしてあなたは誤っている、だからあなたは俺(私)の言うことに従いなさい。
私はあくまでも民主主義、デモクラシーに生きる人間だから、こういう態度の人を見るたびに、その視野の狭さにゾッとする。こういう言い方をすると「お前だって」と言われるし、自分でも言いたくなるのだけれども、やはり迷いなく剥き出しの心臓に剣を突き立てられる勇者は恐ろしい。眼光がガンギマリすぎている。心のブレーキを踏みすぎるくらいの葛藤を抱く優しさと、自分が知らず知らず加害者性を有するかもしれないという懐疑的な視点は、大切にしたい。
車の運転と同じで、ブレーキを踏みすぎたり、徐行しすぎると、かえって交通の円滑性を失わせてしまう。デモクラシーでも、あまりに慎重に議論しすぎると、時の流れに置いていかれて、いつまでも本来の問題に対処できない。時には思い切ってアクセルを踏み込む勇敢さ、暴力性も肯定する必要がある。とはいえ、正義中毒は、アクセルのみを先鋭化させるので、今のXには煽り運転、交通ルールのコの字もない人間が溢れかえっているのである。
もちろん、自分の意見を言うなというのではない。
・・・・・・・
「自分はこのように思うのだけれど、あなたはどう思いますか」
「自分はこう思います。あなたの考えには同意できません。なぜなら……」
「それは違うと思います。なぜなら……」
「なるほど、そういう見方もありますか、でも自分は感情的にそれを受け入れるのが難しいです、どうしましょうか」
「自分も、〜〜〜というように感じるので、感情的にあなたの意見を受け入れづらい部分があります。では、妥協点として〜〜〜というのははいかがでしょうか」
「少なくとも私たちの間では、この議論を経て、〜〜〜ということにしておきましょう。状況や人が変われば、再び議論することとしましょう」
・・・・・・・
こんな堅苦しい会話でなくとも、日常会話の中でこういう議論がなされるのがデモクラシーとしては望ましい。MBTIがどうこうと言っている場合ではないよ、本当に。しかしこれは本当にめんどくさい過程であって、叫んで暴れて、拳や言葉で殴りつけて、言うことを聞かせる方がずっと簡単である。そういう衝動は誰しももっている。
でもやっぱり
宮崎駿「世の中の大事なことって、たいてい面倒くさいんだよ」
らしいし。
つまり、最初から絶対正しい何かがあるわけではない。互いの夢や、思想や、これまでの人生、なんとなくの感情、もちうる金や時間や能力、あるいは合理性、どんなものを議論に持ち出してもいい。今この瞬間から顔を合わせた二人で、三人で、そのグループで正解を一応決めて、やってみる。ズレたり、負担が偏ったり、苦しかったら、もう一度話し合って修正する。チキンレースだから、相手がブレーキを踏んだら、ここぞとばかりにアクセルを踏んでしまいそうになる。けれども、そこでアクセルを我慢して、とにかくブレーキとブレーキで歩み寄っていく。そして最後に、傷なくハイタッチするのが望ましいが、どうしても噛み合うことがないのなら、肩をすくめ、手を握り合って、good luckと言うしかない。
少々、男女論争から離れてしまったようにも見えるが、アクセルしか踏めない人々はXに多すぎる。しかも、そういう人は往々にして、アクセルを踏まないと決めると、ブレーキしか踏まないようになる。自分の正義を疑うことがないのかと思えば、ひとたび正義に疑念を抱いてしまうと、今度はメンヘラを起こして「自分なんて」と自己嫌悪に陥る。彼らは極論でしか話し合えず、具体的な現実の差異(さまざまで複雑な物事の違い)をとらえる許容性がなく、常に白黒はっきりさせることを狙っている。実際には、白黒はっきりさせられるような事象を探す方が難しいのに。
随分と悪口のように書き綴ってしまったが、私は、自分自身も含めた彼らのことを、自力で改善しろとか、責任を感じろとか責める気は全くない。彼らと私をそうさせたのは、特定の誰かではなく、この社会そのもの、一個の物としては捉え難い、社会の網目そのものなのである。
長くなってしまったので、続きは次へ回すこととする。