【短編小説】夏風
ボロ小屋に住まう婆さんは、いつも休みなく家事をしていた。料理に掃除に買いもの。その多忙さは、皺を隠すほどに身についているようだった。なによりも婆さんは、洗たくをしているときが一番綺麗であった。洗たく籠のなかには、洗たくものが、花が咲き誇ったかのように目まぐるしく詰めこまれている。それを婆さんは、地面を掴むように引き上げ、洗たく機のなかへ送り出す。夏の乾いた青空の陽は、濡れた衣服たちを風になびかせながら、木漏れ日の音をバフンと奏でて物干しざおにカーテンをつくってしまう。その姿は母のようだった。
瑛太はそんな婆さんの手伝いをしたいといつも悩んでいた。
「婆ちゃん。なにか手伝うよ」
「瑛太は遊んでればいいの」
瑛太は肩をすぼめて、むだに広い青い庭へと飛び出した。遊べといっても、瑛太には友だちがいなかった。「親なし瑛太」「ボロ屋の瑛太」と同い年の子たちに悪口を叩かれていたからだ。
瑛太は草むらにしゃがみこみ、道行くアリの隊列を眺めた。アリたちは死んだイモムシを協力して運んでいた。おぼつかない脚で、たどたどしい脚で、巣穴へ持ち帰ってゆく。アリたちの人間くさい真似ごとに瑛太は嫉妬し、アリの巣穴に水を注いで、石で入り口を塞いでやろうと考えた。しかし、瑛太は小さくもがく生命に儚さを見出だし、自身の心の残虐さに反省した。いじめてはならない。弱くても小さくても。
友だちの家には大きなテレビがあって、大きな冷ぞう庫があって、大きな洗たく機があるそうだ。瑛太のボロ屋には箱のようなテレビに、箱のような冷ぞう庫に、箱のような洗たく機しかなかった。そしてそのどれもが小さく情けない姿であった。瑛太は貧富の差に我慢できなくなり、つい婆さんへ口をだしてしまった。
「婆ちゃん、どうして古い洗たく機のままなの」
「物は使いようだよ。この子はまだ頑張れるみたいだからね」
そう言いながら、洗たく機の手回し機を握って、ローラーを回していた。濡れた衣服がナメクジのようにローラーからぬらぬらと出てきた。触れるとひんやりしていて、乾いた掌にすぐ吸いついた。
「スイカ、食べてらっしゃい」
瑛太は木箱のような氷冷ぞう庫のなかから、いくつもの山脈を連ねたスイカを手にとり食らいついた。シャクシャクとやわらかい音が噛みつくたびにでてくる。雪のように震えるほど冷たくはないが、スイカの甘さが夏の熱気を走って瑛太の舌に伝わってくる。
婆さんはまだローラーで衣服の水気をしぼりとっているようだった。瑛太はスイカの種を飲み込んだ。
ある日、婆さんが風邪で寝込んでしまった。瑛太は今まで婆さんがしてきた家事を一人でしなくてはならなくなった。
料理はほどほどにできて、掃除は完璧にこなしてみせた。料理掃除だけで、一日の半分を使ってしまう。腕や肩や腿が岩のように動かなかった。瑛太が一番困った家事は洗たくだった。
飾り気のない長方形の姿に、まんまるのつまみは二つだけ。頭部には衣類を食べる大きな口と、右側には上下二つに揃ったローラーに、それを動かす手回し機。さらに体の横にはローラーから出てきた衣類を受け止める、金属の網籠が寄り添っていた。二つのつまみは大きなギョロ目となり、じっと瑛太を見つめていた。
瑛太は恐る恐るつまみに触れた。小さくて健気な洗たく機を壊してしまわないか、緊張でべたべたの汗をかいた。二つしかないのだから大丈夫。左のつまみをカチンと回して、右のつまみもカチンと回した。すると洗たく機は、火がついたように騒ぎだした。渦を巻く水がプチャピチャと嬉しそうで、瑛太の身体の熱はずうっと引いた。
婆さんは気に病んでいた。瑛太に要らぬ負担をかけてしまったからだ。熱がふくらむなか、瑛太が軽快な足音を立てて、婆さんの寝込む布団の傍へと座った。
「婆ちゃん。ぼくね、洗たく機を一人で使えたよ」
「大人だね。瑛太は」
瑛太は洗たく機が静かになったので、手回し機でローラーを回した。上下二つのローラーの隙間に衣服を挟んだ。手回し機は錆びているようで、一周めぐるだけで息が上がってしまった。
「そうだ、古かったんだ。婆ちゃんは一人でやってきたんだ」
洗たくものを干すには、なにか土台がないと物干しざおには届かなかった。それに干す衣服のバランスを考えないといけなかった。瑛太はしかめっ面をして、熱で蒸発するほど頭をめぐらせた。しかし、洗たくものを均等に干しても美しくなく、不揃いのように見えた。所詮はただの子どもの稚拙な手伝いにすぎなかった。
やはり、洗たくをしているときの婆さんが一番綺麗なのだ。濡れた衣服をはためかせる所作も、衣服の袖口へ指をすべらせる優しさも、瑛太には母のように見えてしまうのだった。
夏の冷たい風が足もとをすり抜けていった。瑛太の瞳は陽炎で燃え上がり、しゃぼん玉がきらめいていた。瑛太は庭を荒く汚して、寝ている婆さんの布団の傍でわんわん泣いた。
「離れちゃいやだよ婆ちゃん」
「どこにも行きやしないから大丈夫。婆ちゃんが元気になったら、今度は一緒に洗たくをしようね」
綺麗な婆さんの風景に、瑛太という小さな風が映しだされた。夏の白い陽の照り返しのなかに、あたたかいほのかな風が心を揺らしていた。
洗たく機は少し寂しく笑っていた。