【長編】とてつもないない質量で恋が落ちてきた・第8話 恋人 ①
「もう恋はしないんですか?」
そう言って神谷さんの顔を見た。辛そうでいて、過去を愛おしむような表情をしている神谷さんに胸が苦しくなった。あまりにも深く彼女のことを愛しすぎて、誰とも付き合ってこなかったのだとしたら? 私がその隙間に入ることなどできるのだろうか。
「……いままでそんな余裕は、なかったからね」
神谷さんは小さく笑い、少し困ったように私を見た。その瞳は熱を帯びていて、いつもの冷静な彼とは違っている気がした。好きだという気持ちが炙られ、溶け出していく。
たとえ彼女が彼の心のなかに住みつづけているとしても構わない。ううん、いいわけはない。けれど仕方がない。過去を経て今の神谷さんがいるのだから。
今ここで、気持ちをつたえたい。
そう思うのに勇気がなかなかでない。告白したらどうなるのだろう。フラれたら神谷さんとの関係は、これで終わりになってしまう。もちろん会社では普通に会って仕事をするだろうけど、気まずい空気を飲み込んで、当たり障りのない会話をするだけの関係になってしまう。
怖い。告白するのがこんなに怖いと思ったことはないかもしれない。
好きだと思った人にはいつだって自分から想いを伝えてきた。といっても、高校の時につきあった彼氏と健史だけ。断られたら仕方がない。そう思っていた。私は潔い人間だから。友達にも男前だ、なんて誉められてその気にもなっていた。それなのに私は全然潔くなんかない。フラレたら仕方ないなんて、苦しすぎて絶対そんなふうに思えないだろう。
指先が震える。こんなに怖いのに、それでもやっぱり自分からこの気持ちを伝えたい。だって、いま言えなかったら、きっとずっといえない。そんなのはイヤだ。指先を握りしめ、なんども声をだそうとして吐息だけがはきだされてしまう。神谷さんは私の言葉を辛抱強く待ってくれている。
震える唇をなだめて。最後にもう一度吐息をついたあと、二人の間にある空間にその言葉を押し出した。
「それなら今から……私と恋を始めてみませんか?」
ドラマのセリフみたいなへんな告白。春とはいえまだ寒いくらいの気候なのに、背中を汗が伝うのを感じた。あとで思い出したら、恥ずかしくなって床をのたうちまわるかもしれない。
神谷さんは大きく瞳を見開いて、しばらく私の顔を見つめていた。まるでこちらの気持ちを目で見ようとするかのように。その視線が頬をひりひりと焦がしてひどく熱い。つい俯いてしまう。耳の奥で響いている心臓の音に、タカヤナギさんって呼ぶ穏やかな声が重なった。
恐る恐る顔をあげる。張り詰めた空気を和らげるように神谷さんが笑っていた。私の好きな、目尻にしわをくしゃりと寄せるあの笑顔で。目が合うと、神谷さんはゆっくりと口を開いた。
「そうだね。タカヤナギさんが俺でいいなら、はじめてみようか」
拍子抜けして肩の力がガクッと抜けた。告白が受け入れられたというよりは、冗談として受け流されてしまったと思った。
「ず、随分簡単に言っちゃうんですね」
あまりにもあっさりそう言ってしまう人に、つい可愛くない憎まれ口を叩いてしまう。神谷さんは苦笑した後、ちゃんと真面目な顔をして私を見た。
「簡単になんか言ってないよ。この十年、誰にも言ったことがない。本気じゃなきゃ言わない」
それって私と付き合うっていうこと?
聞きたいけど聞けない。他になんていえばいいのかもわからない。しばらく、と言っても数秒だったと思うけれど、言葉がでないまま神谷さんの顔を見てしまう。
「大丈夫? 固まっているけど」
苦笑しつつ心配そうにわたしをみているから、なんとか口をひらく。
「か、神谷さん……」
ようやく声が出たけれど、そのあとが続かない。心臓の音がさっきより激しく鼓動して、耳の奥で反響している。指先まで一緒に脈を打ってぴりぴりしてる。まちがいなく体温もあがってる。きっと顔は真っ赤だろうけれど隠すこともできない。
神谷さんが私にふわりと笑いかけた。目を細めて唇が優しくカーブを描いていくのを、なにかの映像のように見つめてしまう。すごく色っぽい。そう感じてしまう笑顔だった。
「俺の本気って言うのは、結構やばいよ? どうでもいいことは全然気にしないけど、本気になったらこだわるし、我儘でしつこい。……それに。一度やった失敗は繰り返さないって決めているから。タカヤナギさんが逃げ出したくなっても……」
神谷さんは少しだけ声を潜めて、囁くように言った。
「逃げられないよ? それでもいいの?」
すごく好きな人にそんなことを言われたら、ドキドキしすぎて何も言えなくなるって目の前の人はわかってない。なんとかこくこくと頷いた後、椅子の背もたれにくたりと寄りかかってしまった。神谷さんは私と目を合わせたまま、笑っている。悔しいくらいに余裕がある笑顔。