【長編】とてつもない質量で恋が落ちてきた・第8話 恋人 ②
「そうだ。タカヤナギさんの下の名前って何て言うんだっけ? LINEには、”りーにゃ”ってかいてあったけど、まさか本名が”りーにゃ”じゃないでしょ?」
いつもの調子に戻って、砕けた感じになった神谷さんの言葉に、ほっとして笑ってしまう。
「………りーにゃ、は学生時代のあだ名なんです」
「りーにゃ、もかわいいけどね。俺が呼ぶのにはちょっと抵抗があるなあ。……つき合うのに、名字で呼ぶのもおかしいよね」
夢の中にいるみたい。神谷さんとつき合うなんて。地に足がつかないような気分のまま、口をひらく。
「あの、下の名前は理名っていいます。高柳理名です」
その瞬間、ほんのすこしだけだったけれど、神谷さんの表情が変わった。まるで時間が止まったように、私を見つめた。
「りなっていうの?」
「はい、たかやなぎりな、です。理科の”り”に、名前の”な”で理名」
彼の視線は私を通り越して、どこか遠くを見ているようだった。それから。表情を緩めて、ひとつ吐息をついたあと。今度は確かに私をまっすぐ見つめた。
「理名」
低く響く声でそう言われて。また背中が震えてしまう。答えようとするのに、声がうまくでない。数秒みつめあったあと、神谷さんが口を開いた。
「俺とつきあってくれる?」
「……は、はい。お願いしま、す」
ようやくしぼりだした声は上擦ってしまった。神谷さんはどこかほっとした表情を浮かべ、ありがとうよろしくね、と優しく囁いた。
食事を終えて。私が支払いをしようとしたのに、 ハンカチを貰ったお礼だから、とまた神谷さんが強引に払ってしまった。ここの食事代ってハンカチの何倍するのだろう。このまえの居酒屋だって払ってもらったのに。
「ううん。だめです。私が誘ったのだから、ださせてください」
店を出てあと、コートのボタンをはめていた神谷さんをみあげて、さきほどもやった押し問答をはじめようとした。ストップ! そういって手をあげて時計をみたあと、じゃあさ、と言って軽く視線を腕時計に落とした。
「この後まだ大丈夫? 何か予定がある?」
すぐに首を横に振る。もちろん予定なんてある訳ない。見上げる私をいたずらっぽい瞳で見返してくる。
「俺、行きたい店があるんだけどいい? そこは奢って貰おうかな」
そう言われてようやくほっとする。
「もちろんです。どこのお店ですか?」
「さっき話をしていた、日本酒の立ち飲みバーに行ってみたいんだけど。案内してくれるかな。渋谷にあるんだよね?」
「あのバーですか? えーと。ここから歩いてそんなにかからないけれど、……あ、さっきの話で興味がわきました?」
嬉しくなってうきうきしながらそういう私の顔をじっとみてから、すっと瞳を緩めて苦笑した。
「興味が湧いたというか……そこに男とふたりで行ったでしょ?」
「えっ! ど、どうして……」
ずばりと言い当てられてしまい、二の句を継げなくなってしまう。神谷さんはやっぱりね、とため息まじりに笑う。
「そうだと思った。だから俺も行ってやろうと思って。……なんだか悔しいからさ」
口元は笑っているのに、拗ねた表情をちらりとみせるから、頬がカーッと熱くなってくる。
じゃあきまり。そういって私の手を取る。
「案内して。とりあえず駅の方に行けばいいの?」
繋がれた手の暖かさ。目線の少し上、肩先のむこうにある普段よりもすこしだけ真面目な横顔。私の視線に気づいて、なに? と笑う優しい笑顔。いつもは苦手な渋谷の雑踏が、今はなぜだか高揚する気持ちを優しく包んでくれる気がした。
「ここです」
案内した雑居ビルの五階。エレベーターがあいて目の前にみえた、こざっぱりした木枠のドアを指差す。
「へえ。想像したより落ち着いた雰囲気だね」
「そうなんです。私ひとりでもこれる雰囲気なんですよ」
一瞬間があいて、横からため息がこぼれたから、思わず見上げる。神谷さんが眉をよせて難しい顔をしていた。
「一人できちゃだめ。いくら健全な店でもなにがあるかわかんないし、たとえ店は安全でも、外にでたとき、酔っているところをつけられでもしたら、どうするの?」
結構真面目に怒られてしまい、うっと言葉に詰まる。いつもなら負けん気を発揮して言い返すところ。だけど真剣な顔をした神谷さんには妙な迫力と説得力があって、言い返せない。
高揚していた気持ちが、ぺしゃんと潰れて俯いてしまう。すると間髪いれず、大きな手のひらが私の頭を包んだ。
「来たくなったら俺を誘って。時間を作って一緒にくるから。いい?」
神谷さんがしゅんとした私をみかねたのか、口調を緩めて囁いた。言っている内容は保護者みたいなのに、声には微かな甘さが見え隠れしているから、私も素直にうなずいてしまう。顔をあげたら、神谷さんが神妙な顔をしてこちらをみていて。しばらく見つめあったあと、どちらともなく笑ってしまった。
神谷さんはくしゃくしゃっと柔らかく私の髪の毛をかき混ぜた。その手の感触がやっぱり凄く優しいから、撫でられたねこみたいに、目を細めてしまう。ついこないだまで、時折仕事で関わるだけの間柄だったのに。まるでずっと前から、こうして一緒に過ごしてきたように感じてしまう。