アイデンティティーと小説について少し考えてみた。
アイデンティティーと小説はどのような関係にあるのか。ここでは、僕が出会った本から抜粋して考えて行きたいと思う。
ここでは、日本文学におけるアイデンティティーという定義を明確に大江健三郎はしている。つまり「われわれは(自分は)、どこから来たのか?どこへ行くのか? そしていま、どこいるか?」である
島田雅彦が言う「私は何処から来て何処へ向かうのか?」は大江健三郎が定義した、「われわれは(自分は)、どこから来たのか? どこへ行くか? そしていま、どこへいるか?」とアイデンティティーの定義と同じことを言っていると考えられるだろう。つまり、「アイデンティティー」を考える者は、小説においてどこからきて、どこへいき、どこへいるかを考えることがアイデンティティーの定義と言える。
また、大江健三郎は、このアイデンティティーの問いかけを
の一例を挙げたり、
また、開高健も小説において大江健三郎曰わくアイデンティティーを書こうとしたのであり、その実力を持ってしても長編3部作の『花終わる闇』のなかで表現しきれず未完に終わってしまったとしている。それも「アイデンティティーの魔にとりつかれてしまったからだ」としている。
アイデンティティーと小説について今回僕が、興味があったので調べてみたが、難解なテーマであることが浮き彫りになった。大江健三郎の『小説の経験』は難しく読解出来ていない部分が多いと思う。それを考慮してもアイデンティティーを小説で表現するのは難しいことが分かった。
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