【連載小説】『陽炎の彫刻』7‐2
「明日も休みでよかったよ。」
僕は呼吸を整えながら、明日の筋肉痛を確信した。広場の方では、子どもたちが走り回っている。その両親と見られる二人が遠目から子どもたちを見守っている。さっきまで天を仰いでいた梶川君は、いつの間にか正面に向き直っていた。
「子どもは無尽蔵だな。」
そう言って梶川君は少し笑い、またスポーツ飲料を一口含んだ。僕たちの呼吸は、段々整ってきた。僕の方は、まだ身体に熱がこもっているのを感じていた。
「それで。」
梶川君が唐突に聞いてきた。
「それで、君は一体何を企んでいるんだい?」
僕は虚を衝かれたようになった。僕が何かを試みていることを、彼には見透かされていたというのだろうか。
「別に、何も企んじゃいないさ。」
僕は少し粘ってみることにした。別に、もう少し踏み込まれたら、白状してしまっても構わないのだ。
「急に公園に呼び出して、一緒にジョギングに誘うなんてちょっと変だと思ったんだよ。普段から君が運動しているという話も聞いたことがないしね。」
「でも、君だってこの前、急に僕を河川敷に呼び出して、ゲームだなんだって言っていたじゃないか。それと似たようなものだよ。」
「でも、僕は最終的に企みを白状したじゃないか。」
彼は冗談めかして、僕を責め立てるような口調で詰め寄った。僕は白状する事にした。
「君に汗をかかせたかったんだ。」
梶川君は上手く事情を飲み込めないといった表情で僕を見つめていた。これだけでは納得しないのも無理はない。僕は手段の説明をしただけで、目的を話していない。
「ちょっとした僕の好奇心だと思ってほしい。君の身体の仕組みを少し知りたくなったんだよ。君が口から取り入れたものをどうやって外に出すのか。トイレに行く以外にその手段があるのかどうかを知りたかったんだ。それだけだよ。」
梶川君は僕の回答を聞いて、瞬間きょとんとした表情を浮かべ、しばらくして笑い出した。
「たったそれだけのために、僕を呼び出して走らせたのかい?」
彼は笑いながら僕に訊いた。
「そうだよ。たったそれだけさ。」
僕も彼につられて、少し笑った。彼は笑い続けた。彼にとっては、笑ってしまうくらいに馬鹿馬鹿しいことだったのだろう。そして表情や笑い方を見る限り、それは愉快でさえあったようだ。
「だったら、こんな真似をせずに直接聞いてくれたらよかったのに。」
笑いが収まると彼は言った。
「僕は汗をかくよ。暑ければ汗は出るんだ。それは君と全く同じだ。」
「直接聞くのは何となく憚られたんだよ。」
梶川君と僕は、ベンチからようやく立ち上がれるようになった。僕たちは食事をとる場所を探して、歩き始めた。といっても、ラフな格好で一度汗もかいたわけだから、入れる場所も限られるだろうが。
「君は、隠し事は苦手だろ?」
急に梶川君が訊いてきた。今までそんなことを言われたことはなかった。人並みに隠し事は得意なつもりでいた。
「そうかな。得意というわけではないけど、特別苦手という意識はないよ。」
「今日僕を呼び出した時から、何かおかしいとは思ったんだ。何か企みがあることは君と会った時に確信したよ。」
僕は、はじめから自分の表情に好奇心からくる企みがあることを、梶川君に見抜かれていたのだ。梶川君の言う通り、僕は隠し事が苦手なのかもしれない。でも、梶川君の直感が鋭いだけのような気もする。
「君にいいことを教えてあげよう。」
梶川君が横目で僕の方を不適に睨みながら言った。
「秘密の隠し方は二つしかない。」
彼は粘度の低い、さらさらした汗を拭きながら言った。
「誰にも見えないような場所に置いておくこと。もう一つは、見せてもいいものの中にそれとなく紛れ込ませること。」
「君の身体のことについては?」
「どちらでもない。」
彼の靴に、風に運ばれた新聞紙が引っかかった。
僕はその時、何故かあのコンクリートで埋められたトイレを初めて見た日に、梶川君の部屋で聴いたSimon & Garfunkelを思い出した。
こんな風に、僕と梶川君との関係は、満ち足りた退屈の中で流れていった。ここまで読んだ読者には何となく察しがついただろうが、僕と梶川君をつなぎとめていたのは、この満ち足りた退屈以外の何物でもなかったのだ。
僕たちは常に満ち足りていたのだ。仕事もあり、収入で特に困ることもない。食事だっていつでも十分に得ることができる。音楽だってあふれている。友人にも、恋人にも恵まれていて、生活環境も衛生的で便利さも享受して生活している。安心で、安全で、愉快で穏やかな生活が送られていた。僕たちは間違いなく満ち足りていた。
でも、一方で僕たちは退屈でもあった。排泄をしない人間を目の前にしても、コンクリートで埋められたトイレを見ても、新天地を求めても、自宅の近くで通り魔事件が起こっても、それ以上僕たちに為す術がないのだ。そうである以上、僕たちは退屈であらざるを得なかったのだ。
満たされていながら、それでいて退屈な日常。今振り返ると、それこそが僕たちの関係をずっとつないでいたのだ。
そして、この満ち足りた退屈は、まもなく終わりを告げることになる。
ー続ー