【連載小説】『陽炎の彫刻』2
食事は、梶川君の家の近くのファミリーレストランで摂ることになった。ここは僕と梶川君の行きつけの店になっていた。ちょっとした理由から、ここでよく一緒に食事をするようになっていた。
「これといって個性のないところがいいよね。」
若干不躾にも思える感想を彼は言った。正直なところを言えば、僕も彼と同じように感じていた。店員に聞かれていなければいいが。そう思いながら煙草に火を着けた僕を見て、梶川君は「それに煙草も吸えるし。」と言い添えた。
「君も吸うかい?」
僕が煙草の箱を開けて差し出すと、梶川君は一本とって僕に火をねだった。時間は夜の7時になっていた。夏の夜とは言えど、暑さのピークは越えた。この時間でも十分に暗くなっていた。レストランは丁度晩飯時というのもあって、少し混んでいた。ファミリーレストランというだけあって、客層も広い。課題に追われている大学生と見られる若者、制服を着た無責任を謳歌する学生、子どもから目の離せない家族連れ。
料理が来るまでの間を、僕たちは最近の仕事の進捗や会社の同僚やお互いの近隣住民の噂話、煙草の煙、そして気の置けない沈黙で埋めた。店内ではThe PoliceのEvery Breath You Takeのアレンジされたオーケストラだけの曲が流れていた。
料理が運ばれてきた。僕はハンバーググリルにライスとスープのセットを、梶川君は海鮮パスタにパンとスープのセットを注文した。
「君も随分驚いたんじゃないかい。」
海鮮パスタのエビをフォークで突き刺したまま彼が尋ねた。さっきの話のことだろう。
「そりゃ、驚いたさ。」
僕がスープを飲み込んでそう応えるまで、彼は待ってくれた。
「でも、あれを見せたのは君が初めてかもしれない。」
「そうかもしれないけど、あの壁を見た他人の反応を君もある程度予想はできただろう?」
「まあね。」
この返答で、例の壁の件を除いては彼が常識的な人間であることが確認できた。一般的なトイレは、コンクリートで埋められてはいないものだ(というより、そうであればトイレ本来の機能を喪失する)、という社会通念を彼と共有はできていた。
「さっきはああいったけど、やっぱり不思議だね。空腹感もあって、こうして食事もするのに、君が食べたものは一体どこへ行くんだろう。大体、そんな身体で27歳まで生きてきたんだから、尚更不思議だ。」
「僕にも正直よく分からないんだ。医者ですら匙を投げたくらいだからね。僕が生まれた頃に比べれば医療も進歩しているだろうから、僕の身体のことが分かったりするかもしれないけど。」
しかし、彼は自分の身体にまつわるミステリーについて特別に関心を持っていたようには見えない。結局のところ、不思議ではあるとは言え、このような状態でも27年間生きてこられたわけだし。人間は意外にも、自分のことに無頓着でもある程度生きていけるのかもしれない。
「しかし、一体どうして今までこのことを黙っていたんだい?」
やっぱり僕は気になってしまった。3年の付き合いになれば、自分の身体のことについて話す機会はいくらでもあったように思える。
「別に隠していたつもりはないさ。」
梶川君のパスタは残り二口分くらいの量になっていた。彼は食べるのがはやい。店内の音楽はCarpentersのI Need to Be in Loveに変わっていた。
「ただ、誰も聞かないから答えなかっただけさ。」
僕たちは料理を食べ終え、追加でコーヒーを頼んだ。
「しかし、驚いたと言う割には君も随分と冷静だったね。」
梶川君には、僕が冷静に見えたらしい。しかし、思い返してみると、あの常軌を逸した彼の部屋のトイレを見た割には、僕は確かに冷静だったかもしれない。僕は驚いたことには驚いたが、いくつかの質問に梶川君が答えたのを見て、自分の想像の及ばないような生活をしている人間もいるということを悟ったのかもしれない。
「確かにそうかもしれないね。でも、君が嘘を言っているようには聞こえなかったからさ。」
「僕のことを敬遠したとしてもおかしくないと思っていたけど。」
「別にそんなことをしないさ。それに、君だって、僕がそういう人間に見えないからあのことを打ち明けたんじゃないのかい。」
梶川君は首を縦に軽く振って、僕の言葉に応えた。彼との付き合いもそれなりに重ねてきたつもりだ。彼だって、僕の人となりをそれ相応に分かっているはずだ。
「僕は君のことをいい友達だと思っているよ。」
瞬間、僕は自分の口からこんな言葉が出てきたことに少し照れくさくなった。友人関係において、その相手に自分たちの関係をわざわざ明確に宣言する機会はそう多くはない。僕は慌てて、次のように言葉を足した。
「少なくとも、例えば君が僕に銃を突き付けたり、僕の大切なものを奪ったりしない限りはね。むしろ僕は君から与えてもらったものの方が多いような気がしているし。」
「例えば、何を?」
この質問の答えを、その時は見出せなかった。いや、もしかしたら今もそうなのかもしれない。それが何となく、悔しい気がする。自分から言い出しておいたのに、僕は沈黙してしまった。
「でも、僕も君をいい友達だと思っているよ。」
僕の沈黙を見て、梶川君がそういった。彼は吸い殻が二つ入った灰皿を持ち上げて言った。
「それに、最後の煙草をくれたしな。」
それはいつか梶川君と一緒に観た映画のセリフをもじった言葉だと、僕はすぐ分かった。寝る時に枕の下に靴を忍ばせる偏屈な男が出てくるアメリカ映画だったと思う。タイトルを忘れてしまった。僕と梶川君は、お互いにだけ了解可能なそのネタに、にやけ笑いをした。
僕は、持っていた煙草の箱の中身を確認した。煙草は一本もなかった。梶川君にあげたものが最後の一本だったことに、この時気が付いた。さっきのセリフはジョークではなかったのだ。残りの本数が少なくても次のひと箱を買い忘れる程、そして、最後の一本を易々と友達にくれてしまうくらいには、僕は煙草に執着していなかった。
コーヒーが、チープな湯気をたててやって来た。
―続―