日本野球の歴史#3
この年(昭和二十一年)には実業団野球の都市対抗戦も復活しました。
昭和二十二年の第十八回大会と記憶いたしますが、日鉄二瀬が優勝しております。八幡製鉄と富士製鉄に分かれる前です。
監督は濃人渉でこの人は後の中日の監督です。翌年の昭和二十三年の優勝は大日本土木でした。
熊谷組も常連で、野球のおかげで本家筋の飛島建設や前田建設よりも有名になりました。
昭和二十四年には別府星野組が優勝しました。
一塁手は西本幸雄で、投手は和製『火の玉』投手といわれた荒巻淳です。
彼はスリムでハンサムでおまけにサウスポーでした。
法政から近鉄に入った関根潤三はサンフランシスコ・シールズ(トリプルA)が来日して、日本のプロ野球チームを撫で斬りにした昭和二十三年、オール六大学のエースとしてこれに完勝しています。
昭和二十五年、星野組の主要メンバーと阪神タイガースの脱退組で毎日オリオンズが結成され、これを契機にプロ野球は二リーグ制になりました。
阪神タイガースの脱退組の主力メンバーはプレイングマネージャーの若林忠志、別当薫外野手、土井垣武捕手、本堂保治二塁手等でした。
別当は後にオリオンズのプレイングマネージャーになりました。日本人の判官びいきかどうかわかりませんが、このときからタイガースファンが全国的に増えました。
一方毎日オリオンズは最初から最後まで人気の出ないチームで終わります。後の大毎は戦前の大阪毎日と違って映画の大映が資本参加したチームでした。当時鳴り物入りで南千住に球場を造りましたが、その球場が不人気で閑古鳥が鳴いていたそうです。交通が不便のせいでもなかたようです。戦前の上井草、州崎球場は好きなファンで満員でした。