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超短編小説「グチョル」

 2012年(平成24年)6月12日発生した台風4号(グチョル)は強い勢力で、6月19日には和歌山県南部に上陸した。
 台風は自ら自分の行き先は決められない。低気圧とか高気圧とかに左右される。ただ、自然の営みを軽んじては痛い目にあう。
 私は、6月19日のその日、早めの帰宅を考えたが、仕事帰りに一杯引っ掛けてしまい、帰りの電車の中でもふらふら状態で、駅に着いたらドシャ降りで、背広がずぶ濡れになってしまった。
 夜、寝床に入っても、風の音がやかましくなかなか寝付けなかった。この分では裏庭の植木鉢がひっくり返っているだろうと思い、目覚し時計をいつもより、三十分早目にセットして寝た。
 次の日の朝、まだ風が強かったが、雨は上がっていた。
 倒れている植木鉢を元に戻した。大きな柚子の木の鉢やら、金木犀やら、柿の木の鉢などだ。
 丁度良い機会なので、その週の土曜日に風の通り道にあった柚子の植木鉢を移動した。ついでに柿の木など鉢物は全て風のあまりあたらない場所に移動した。また土を掘り返し、そこに石灰を撒いて油粕を入れ、オクラの種を植えた。
 土いじりをしている時がいい。何も考えずただひたすら専念する。
 多分一日置いて、腰やら足の付け根あたりが痛くなるだろうと想像した。

 さて私の息子のことだが、一人息子である。名前を真一と名付けた。
 真一は小さいときから、自分で物事を決められない質だった。誰に似たのか、我儘に育ててしまったのか、私は自分の一人息子がそういう性格なのを心配した。大人になったらどうなるのか不安でもあった。

 己を振り返ってみると、自身の小さいころは、やはり人に頼る傾向が強かったように思う。父親はそういう私を見かねて、隣県の高校に入学させた。寮生活を私に体験させたのだ。入寮当初は不安が募り、家に帰りたかったが、辛うじてその気持ちを押しとどめた。その理由は、友達ができたからだった。その寮で三年間過ごした。その後、大学は家から通った。

 私は真一に友達をつくるようにアドバイスをした。しかし、真一はいつも一人でいた。
 私は思い悩んだ。そこで、ある時から真一に対して、距離を置いた。
 その時期は、妻が死んだときと重なった。気取った言い方をすれば、いわゆるメディエーター的役割を目指した。しかし、うまくいったのか、いまだに疑問符が付く。
 その真一が高校を卒業すると、大学へは行かず、世界中を歩いてみたいと言い出した。
 私は、自分の息子が海外へ、それも一人でふらりと行くことに驚いた。同時に息子の性格からして、反面そのような決意をしたことに、少なからず驚いた。 
 小さいときから何事につけ、人を頼る性格の真一が海外を旅する。それも単身で行くと言う。なにか目的でもあるのか、私は真一に尋ねた。
 真一はただ一言、「日本を外から見てみたい」と生意気なことを言った。
 親として、父一人、子一人で生きてきた。息子が居なくなったら寂しいだろうなと思った。しかし真一にはそういう事は言い出せない。それが父親たる自分の意地でもあると思った。

 真一が海外へ行く日がきた。その日まで、私は真一が何処の国に行くのか聞いていなかった。
「真一おまえ何処の国にいくのか」
「とにかく成田まで行って、それから考えるさ」
「連絡だけはたまによこせよ」
「わかった」と言って、真一は出かけて行った。
 
 時が過ぎ、三年が経った。私は今までと変わらぬ毎日を送っていた。
 真一からその後一度だけエアメールがきた。差出し先はブータンからだった。
 その後どこにいるのか皆目判らなかった。
 定年を過ぎ、家で呑気に暮らしている私であったが、ある日、重い腰を上げ、押入れの整理に取り掛かった。この際、余計なものは整理しようと思ったのだが.…。
 行李の中には、若くして死んだ妻の衣装などが入っていた。浴衣やら、ワンピース、ブラウスなど、男手でそれらを処分することに躊躇した。
 そのまま、また行李に納めた。
 妻の匂いはすでに消えていたが、それらを身に着けていた妻の姿が浮かんだ。暫くそのままにしておこうと思った。
 他に、手紙やら雑多なものが入ったダンボールなどがあったが、それを開けて中の物を見つめていると、過去の思い出に慕ってしまいそうなので、また蓋をし、ガムテープで止めた。結局は、押入れの整理は不調に終わった。

 縁側に出て、煙草に火を付けた。ニコチンタールが少なめの煙草にしていた。すでに私の肺は、一部肺気腫になっていたが、煙草は止められない。自業自得である。何回か禁煙にチャレンジしたが、長くて二年半、短くて三日で挫折した。その繰り返しだった。

 夕方、たまには家から歩いて五分程の銭湯にでも出かけようかと思い立ち、湯道具持参で出かけた。
 銭湯は空いていた。ゆっくりと湯船に浸かった。銭湯から出ると、夕焼けが綺麗だった。

 梅雨の折り返しの六月末のある日、その日は日中の最高気温が二十四度ほどで、湿気が和らぎ爽やかであった。
 私は朝起きて洗濯物を自動洗濯機に放り込み、コーヒーを飲みながら朝刊を眺めた。天気が良いので、どこかにぶらりと出かけようと思い、身支度をした。人間行動力が大事だ。連日ぼんやり家で燻っていては、カビが生える。毎日前向きに生きることの大切さを考える。心に張りがなければならないといつも思うのだが、真一が日本から離れてから、その張りが幾分薄れたような気がした。何か自分で集中することを探し出さなければ呆けてしまう。
 最寄駅まで七分ほど歩き、改札を抜け都心方面のホームに立った。丁度来た電車に乗った。昼に近かったので車内は空いていた。
 三つ目の駅で降りて、どこかで昼飯でも食べようと思い、適当な店を探した。
 私は毎食きちんと食べるほうだ。マックに入ってハンバーグを頬張るのは、苦手だ。ラーメンにしようか、それとも蕎麦屋に入ろうかと迷った。いつも食べ物屋を探すときにはこうだ。私はそのとき思わずハッとした。真一は私の血をひいた息子だ。人に頼る性格は私にもあるのだ。と思い当たった。そして口をついて出た言葉が “しかたないか”だった。

 私は妻を亡くしてから暫く無性に寂しかった。あの寂しさは二度と経験したくないと思う。その時落込んでいる私を励ましてくれたのが、真一だった。私の心の支えになってくれた。真一にはそういうやさしさがある。

 ある日、以前勤めていた会社の同僚と渋谷の居酒屋で飲んだ。私が肺気腫の初期を知ってか知らずか、その同僚は肺気腫の呼吸法を話していた。彼も昔からの愛煙家である。『口すぼめ呼吸法』というものらしい。鼻から息を吸い口をすぼめて吐くそうだ。リラックス効果もあるとのこと。そんな面倒な呼吸をするより、いっそ禁煙したほうがいいと同僚は言った。しかし、私は彼が禁煙できる男だとは絶対思っていない。
 何事も身の丈じゃないが、ほどほどがいいのではないかと、いつも考える。他愛の無い話しに終始して、二時間ほど飲んで別れた。帰りの電車の中で、その呼吸法を試してみたが酔いが廻ってきたので通常の呼吸法に戻した。家に帰ってテレビをつけた。
 世の中、連日事件が絶えない。私は朝起きて新聞に目を通すが、社会面は必ずといっていいほど、殺人事件だ窃盗事件だと、暗い事件に事欠かない。
 明るい話題が欲しいと思う。その点、今の若者は、リラックスさせる方法を自分なりに工夫しているようだ。スマホや漫画やゲームを電車の中などで聴いたり読んだりしている。一つのリラックス行動だろう。

  朝から蒸し暑い日のこと、真一から便りが来た。それも国内で投函された葉書だった。電話でもいいから連絡をくれたらいいのにみずくさい奴だ。
 その葉書には、東京の大久保に居て、セールスの仕事をしている。元気だから心配するな。と書いてあった。携帯電話番号が小さく書かれていた。彼の性格上、連絡が欲しい時はそうすることが私には判る。私はすぐさま電話した。六回ほど呼び出し音がして真一が出た。元気が無い。近々家に顔をだすと言って、電話は切れた。
 三日ほど経った日の夕方、真一は帰ってきた。
 真一から海外でのことを聞いた。
 ブータンのあとインドに行った。パキスタンとの国境沿いの町へ行き、そこで一週間ほど湖に浮かんだ屋形舟のような小さな船の中で毎日カレーライスを食わされ軟禁状態であったとのこと。
 機関銃を肩から下げた兵士が何人かいて、英語で書かれた看板の中身は、『非常に危険なため、命の保証は無い』旨の内容だった。インド側の兵士が差し出した書面にサインをしたとのこと。その後、インドからタイやベトナムなどをふらふらして、一年ほど前に日本に戻り、東京でBSアンテナ関連の営業をしていた。
 ある夜、遅くに宿泊先のある大久保に戻るため、雨の中、狭い路地を歩いていると、向かいから大柄な男が近づき、道を塞いだ。文句を言ってその場を逃れようとしたら、他の男が二人、暗闇からスーと出てきて真一を取り囲んだとのこと。真一はビックリして逃げようとしたら三人に抑えられ、ポケットやら鞄やらを調べられたらしい。その三人は刑事だった。
 ある通報があり、覚せい剤の密売人と間違えられたらしい。どうして間違えられたか。顔がやせ細ってみすぼらしい容姿だったから密売人に間違えられたと真一は苦笑いをしながら私に話した。
 私は彼の話しを黙って聞いていた。そして満足げに、
「ゆっくりしていけ」と真一に言った。

  畑仕事も根気が大事なようだ。夏の暑い日には植木鉢の土が乾き、からから状態になるので、外出し遅く帰宅しても水遣りは欠かせない。この前、一泊二日で旅に出て一晩水遣りを欠かした。帰ってきてから一週間後に柿の実がポタンと落っこちてしまった。

  人間自立するまでは親からの愛情で育てられ、幼稚園~小学校~中学校と教育によって自我に目覚め、分別を養い、社会生活が出来るようになる。
 その教育が、この地球上の国々の人間のことを思い遣り、平和を希求するものでなければならないと思う。自国の国益は大事だが、それだけを考えていたら、ギスギスした関係が続き、平和な世の中はやってこない。
 そういうことを考えながらも、『日日是好日』なのだ。      了

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