短編小説「別杯」14完
その後、何事もなかったかのように時は過ぎていく。その時の流れに沿うように、人それぞれの死へ近づく営みがある。
ある日、榎さんが近くの大学病院に入院した。末期の膵臓癌だという。
あと半年だという。
蛭間さんと私は、早速、病院に見舞った。榎さんは病院の七階の個室で暇そうにしていた。
「やあ、どうだ」と蛭間さんが、榎さんに声を掛けた。
「どうもこうも、このありさまだ」幾分青い顔をさらしながら、低い声で応えた。
「今日は、榎さんの好きな日本酒を買ってきた。三人で飲もうぜ。ダメなことは判っているが、三人で飲みたいのよ」と蛭間さんは、悪戯っぽく囁く。
榎さんの顔が一瞬こわばった。しかし、直ぐに、「僕は嬉しいよ」と涙を流した。榎さんの涙を流す姿を見るのは初めてだ。それだけ、気落ちしている様子が伺えた。
「少々舐めるだけだ。そして三人で『好きですサッポロ』でも、歌おうよ」と私が言うと、蛭間さんが、自宅から持ってきた小型のCDラジカセを取り出した。三つの紙コップにそれぞれ、酒を注ぎ、三人で乾杯した。
『好きですサッポロ』が流れ出した。三人は大きな声で、歌った。三人とも涙を堪えて歌った。ほどなく、部屋のドアをノックする音がした。
女性の看護師が入ってきた。
「榎さん、大きな声を出さないでちょうだい。ここは病院なのよ。あら、お酒の匂いがするわ・・気のせいかしら・・」とぼそぼそと独り言。そして、
「お友達ですか?」
「そうです。わかりました。気を付けます」と榎さんが言うと、その看護師は訝しげに出て行った。
「気持ちいいね、鈴木さん、酒を追加」と榎さん。
しかし、その酒の味が苦いようで、榎さんは、顔をしかめた。
その日は、二時間ほどその部屋に居て、病院を後にした。
帰る途中、蛭間さんと私は、赤ちょうちんに寄った。
二人は、黙して飲んだ。時には悔し涙を流しながら、飲んだ。いずれ我々もこの世からオサラバする時が来る。それも、それほど遠くない気がする。
医者の見立てというか、予見はたいしたものだ。榎さんはその六か月後に、旅立った。
【了】
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