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年越しの そば

 慶長年間の終わりのころ、江戸の街は、賑やかだった。
 与太郎は、母の用事で麹町の小物問屋に急いだ。午の刻に家を出たため、お腹が鳴ってきた。どこぞで蕎麦でも啜ろうかと考えた。

 五町ほど歩いた左方の角に 『信濃や』と白字で書いた木看板がある。
 弥太郎は早速、その店に入った。

「へーーい! いらっしゃーい!」という威勢のいい声がする。

 昼時を過ぎた刻でも、店の中は混雑している。手前の席がちょうど空いていたので、与太郎はそこに座った。
 与太郎が座った隣の席で、なにやら言い合う声がしている。
 大柄な男が二人、喋る声がやけに大きい。

「ざるともりの違いが判るかって?」
「そうだよ、長さん おめえ馬鹿だから、そんなことも判らねえだろうな」
「うるせい! そんなに啖呵切るんだったら、富さん、答えてみな」
「直ぐには出てこないよ.… ちょいと待ちな..… なにがちがうのかな?」と富さん。

 しばらく間が空き、

「早くしねーと 蕎麦が延びてしまうぞ」と長さん。
「うるせえ!」と、富さん、大声で怒鳴った。
「お前は判るのかよ」と富さんが反撃に出た。
「俺もお前よりはちょいと利口だが、よくは知らねえ....…」と長さん。
「なーんだ、長さんがわからないことを、俺が知るはずがねーじゃねーか」
 富さんは納得した顔つきである。
「ともかく、ごじゃごじゃぬかしてねーで、早く喰いねえ」 長さんは不満顔である。
「長さんよ、江戸っ子はよ、蕎麦を汁に付ける時はよ、ちょっぴりだぞ」
「判ってらーね、富さん 俺は江戸っ子よーー」

 二人は、ズルーズルーと大きな音を立てながら蕎麦を啜りだした。

 与太郎は、ふたりのやり取りをきいていて、そう言えば、昔、父親が蕎麦談義をしていたことを思い出した。

 当時の江戸界隈では、どの蕎麦屋も「もり」と「ざる」の漬け汁が違っていたこと。

「もり」は辛く、「ざる」は味醂みりんを入れて甘くしてあったそうな。

 薬味として、刻み葱に唐辛子粉が「もり」で、海苔に刻み葱それに山葵下ろしが「ざる」の漬け汁だったこと。

 漬け汁はたっぷり付けないのが、粋な食い方だということが広まると、この方がもっと粋だろうと、つゆを付けるか付けないかで食う輩がでてきた。
 これでは、蕎麦が美味い筈がない。

 もう少しで、大晦日。蕎麦を啜って、また、歳をとるぞ! と与太郎は意気込んだ。
 与太郎は、邪道とおもいながらも、出てきた蕎麦に汁をたっぷりとつけ、啜った。
 そして「美味うまい」と唸った。


「鬼平犯科帳」の挿入歌 ジプシーキングスの【インスピレーション】が
流れているイメージでお読みください。

 年越しそばを食べて、良いお正月を!

【了】

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