戦後の日本をぶらつく⑤(双葉山の引退)
双葉山定次の引退
昭和二十年夏場所を全休した双葉山は、九月二十六日に記者会見をして引退を表明しております。
この年は三月の大空襲で国技館は被爆し、六月に晴天七日間の興行があり、前頭筆頭の備州山大八郎が七戦全勝で優勝しています。
十一月に戦後初の大相撲が行われ、横綱羽黒山政司が十戦全勝の優勝をしております。彼はその後三場所連続優勝を遂げております。
双葉山はこの九月二十六日の会見で、十三尺の土俵を十五尺に広げることに不満を述べています。野見宿祢と当麻蹶速の時代には土俵は無く、立会い場所はその後段々狭くなり、何百年も経って、これ以外無い十三尺の土俵が決まったのに何をいまさら広げる必要があろうかという論旨でありました。
安芸海節男に七十連勝を阻まれ、山に篭り滝に打たれ「いまだ木鶏たり得ず」といったことを合わせ さすがと思いましたが、その後の化け物の小錦八十吉、曙太郎が湧いてでてみれば、あの世で双葉山はどう思っているのでしょうか。
見識の高い大横綱と世間の誰もが思った彼は、二年後に生き神様の爾光尊のお先棒を碁の呉清源と担いで逮捕されました。この時柔道五段の刑事を投げ飛ばしたオマケが付いたのでした。
起訴猶予かなにかで釈放されて、審判長としてその後大相撲に返り咲きました。
面白くなりましたのでこのまま相撲の話を続けます。
時の理事長は大正末期から昭和初期に君臨した大横綱常ノ花寛市で先々代の出羽海であります。既に時津風親方となっていた彼は、出羽海の死で理事長に就任。
双葉山は名門立浪部屋の出身で、弟弟子の羽黒山に立浪部屋の跡目を譲っています。
そのまた弟弟子の名寄岩と合わせ、立浪三羽烏と云われましたが、名寄岩は大関陥落後相撲を取りつづけた力士第一号となりました。
相撲には系統があり、本家に対する分家と巡業に同行する部屋を本家の名を採って○○系統とよんでいました。
時津風が部屋別に改まるまでは系統別に対戦をしました。
定員百五名の年寄は、その系統の年寄が理事長を選出しますので三十名以上の年寄を有する出羽系統が最も有利でした。
出羽海系統は春日野(栃木山、栃錦、栃光などを輩出)、三保関(増位山)、武蔵川(三重の海、武蔵丸、武双山)などです。
出羽海部屋は弟子の独立を許しませんでしたので、横綱千代の山は引退後九重部屋を創立し高砂部屋を頼りました。
北の富士、千代の富士の九重部屋は高砂一門と云うことになります。
高砂系は複雑で説明するには、自信がありません。
前田山英五郎が親方の時には、傍系に大山部屋がありまして、大関の松登がいました。この大関はメンコの松ちゃんと言われるほど花札が好きで、本所警察に狙われていたようです。
若松部屋には三役格行司式守錦大夫の倅(実は大横綱玉錦の忘れ形見、褐色の弾丸房錦のこと)がいました。
本家の高砂部屋では奄美大島出身の朝潮太郎が横綱になり、高見山がハワイからきて一度優勝しています。
高見山は東関親方となり、横綱曙太郎を育てました。
近大相撲部出身の大ちゃんが大関になり、朝潮太郎を名乗り高砂親方になるかとおもったら若松親方になりました。このようにわからなくしているのは、年寄株が作用しているわけです。
年寄の本旨は弟子が師匠の跡目を継ぐことですが、様々な事情があり、扶養料の名目で売買したり貸し借りしているのが現状だと言う事のようです。
いま、年寄株は二億円とも三億円とも言われているようですが、力士が引退して突然○○親方が廃業、○○親方を引退力士が名乗るというケースは、年寄株の貸し借りがあった為にそうなったようです。
江戸川柳に「一年を十日で暮らす良い男」というのがありましたが、明治以降、春夏の二場所制になりました。
昭和の時代になり、昭和二十四年から春夏秋の三場所制が固定し、昭和二十八年の一月場所を春場所とし、三月に大阪で行う場所を春場所とする年四場所制が決まりました。
昭和二十九年に蔵前国技館が完成し、昭和三十二年に九州、昭和三十三年に名古屋場所ができて、現行の年六場所制となりました。
昭和三十五年は横綱栃錦清隆が初場所を制し、翌場所引退。残った横綱若乃花幹士(子供の死で若乃花勝治を改名)も九州場所で新鋭の大鵬幸喜に優勝を攫われると引退してしまいました。
これで(昭和三十五年)栃若時代は終焉し、昭和三十六年初場所の柏戸剛の優勝に始まる柏鵬時代へと移っていきます。