江戸をぶらつこう(柳橋)
( 柳 橋 )
神田川が両国橋のすぐ上手に注いでいますが、隅田川から見て右手一帯を柳橋と言います。神田川の最下流の橋の名も柳橋であります。左手は日本橋両国と呼んでおりました。
柳橋は船宿から発し、昭和三十年頃までは、新橋と並んで東京きっての花柳界でありました。神田川と大川に面する「亀清」(現亀清楼)は時代小説に頻繁に登場します。「稲垣」は横綱審議委員会の会場としてよく当時の新聞に出ました。
下流の清洲橋付近は三角洲になっており、そこを中洲と言い、途中の浜町河岸を含めた三ヶ所を根城とした粋な客(粋客)が細長くて先のとがった舟(猪牙舟/ちょきふね)や屋形船で北国や辰巳に繰り込んだようです。
戦後しばらくは猪牙舟に乗った新内流しが着流しに白足袋に献上博多か一本独鈷の角帯を貝の口に結んで、祝儀を貰うための長竿を手にしたのをよく見かけたという事です。
北国は吉原のことで、辰巳は深川の花柳界のことですが、共に江戸中心からの方角がその名の由来と言われます。辰巳芸者を羽織芸者とも言ったそうですが、芸妓が酒席に侍るのを禁じた時代に羽織を着て男装したので、その名が付きました。また此処では客を振ることを、照るとか照れると言いました。芸者によくある男性名は此処が始まりです。
その後、高潮対策で防潮堤が高く造られ、一階の座敷から見えなくなりますと、柳橋のレーゾンデートル(存在価値/フランス語)は無くなったのです。
やがて東京二十四花街のビリッケツであった赤坂がこれに代るのであります。