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【書くことの不純】を読んで
角幡唯介著 「書くことの不純」 中央公論新社刊
この本は2024年に発刊されており、著者の角幡唯介氏は北海道出身の冒険家であり、ノンフィクション作家である。
彼がかかえる書くことへの矛盾、つまり冒険をしながら、究極の状況のなかで、もう一人の自分がいて、こうしたら(こうなったら)もっと面白い文章が書けるのではということを考えている自分にゾッとする。
序論では、あるインタビューを受けた際、「冒険って社会の役に立ちますか?」という問いに、彼(角幡)の揺れる心境が描かれる。
第一部 行為と表現、第二部 三島由紀夫の行為論 とすすんでいく。
第一部のなかで、夢枕獏の「神々の山嶺」が引用されている。
カメラマン深町、孤高のクライマー羽生丈二、そしてマロリーの死・残されたカメラを巡って、ダイナミックに物語が展開されている。
彼(角幡)は、内在=行為、関係=表現として、書くことは不純ではないかと己に問いかけ、論を進めている。
第二部は、ガラリと変わって、三島由紀夫の「金閣寺」が展開されている。内在と関係を維持しながら、三島自身の年齢に対する永遠の美の追及が社会に受け入れられない反目的感情が、あの市ヶ谷でのクーデター未遂事件で終結する。
生死の瀬戸際でのもう一人の自分が囁く誘い。それを書く不純。それでも書き続ける冒険家の角幡唯介が辿り着いた、行為する表現者の神髄を見事に描いている一冊ではある。
おわり