読書偶感
高校生の頃、友人の部屋に上がり込むのが楽しみであった。四方山話に花が咲いた後、本棚を覗くと発見がある。山上たつひこの漫画本に挟まれてアルチュール・ランボーが手招いている。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は題名に惹かれて「貸して」と頼む。友人曰く「本棚を見られるのは好きじゃない。自分の脳内をのぞかれるのと変わりないから」。なるほどと感心したことを思い出す。
その後、親元を離れて下宿生活を始めたのでより頻繁に友人と行き来するようになった。脳内の風景が寂しいとまことに恥ずかしい。購入した本を積ん読(つんどく:書物を買っても積み重ねておくだけで、少しも読まないこと)して本棚を飾るには忸怩たる思いがつのる。やはり、チューブからしぼり出し、脳内キャンバスに様々な色彩を重ね、意匠にしてこそ意味がある。
その友人の中にやたらと岩波文庫しか読まない輩がいて渡辺一夫訳 『ガルガンチュワとパンタグリュエル』全巻がデンと鎮座していたりする。文庫にはピラピラした硫酸紙のカバーがかかっている。「おー、これは何だかおもしろそうだぞ」と本棚から取り出そうとすると「おいおい、丁寧になっ!」と緊張感で硫酸紙がびりびり震えたのを思い出す。友人は書物に対する愛情もしくはある種の宗教的な心情を持っていたようだ。本を貸し借りするということはある種秘密を共有する行為であり、友人関係が深まったもの同士のみに許された神聖な儀式だった。
そんな目利きの本棚から様々な出版社の存在を知った。青土社、書肆山田、白水社、みすず書房、工作舎、早川書房…自分の嗜好にあう出版社というものがあることがだんだんわかってくる。するとまた見たこともないような世界と出会う。そして、友とまた感想を語り合うのだ。
さて、いま、本はネットで読む時代が到来している。紙媒体の本がいつまで生き残れるかはわからない。旅をしてもタブレット端末さえあれば読書ができるなんて夢のようだ。しかし、本という手触りや匂い、装丁の感覚、微妙なフォントの違いはある種のクオリアを伴っている。デジタルデータでは表せないなにか。そこらあたりがネットで読書に移行できない理由だ。いずれにせよこれからも脳内の風景が色あせないよう絵筆を揮いたいと思う。