村上雄一郎の弁護士資格が剥奪される日 その2
拡散お願いします。
の続きです。
小野寺市長の指示の下
青森市立 浪岡中学校でおきた
イジメ自殺事件について
青森市の第三者調査委員会は
メンバーを一新して
再度、調査を開始しはじめました。
実はこの調査に関し
非公式ながら
私がかかわっておりました。
おそらく小野寺くんは
知らないだろうと思いますし
非公式なので公的記録に
私の名前は一切でてきません。
なんでそういうことになったのか?
というと、
私が浪岡地区出身だからです。
浪岡中学校は私の母校です。
加えて言うならば
浪岡中学校は現在だと
浪岡地区にある
5つの小学校から
生徒たちが進学してくるわけですが
私はその中でも本郷小学校の出身です。
だから「本郷の鎌田」なわけですが(汗)
一学年一クラスの小さな小学校です。
私が本郷小学校に在籍していた当時で
全校生徒数は150名未満
典型的な限界集落なので現在は
全校生徒数は60名を切っています。
自殺した女子生徒 葛西りま の父親
葛西剛は本郷小学校で3学年下だったので
面識があります。
もう40年近く前の話ですが。
あのイジメ自殺事件が起きたとき
私は大阪市におりました。
2016年8月27日 土曜日
私は41歳の誕生日をむかえました。
数え歳でいうと42歳、
「本厄」の厄年になる日です。
私はそれまで「厄年」とか
そういったものは迷信だと思い
あまり深く考えないように
生きてきたのですが
本厄の厄年となる誕生日に
自宅のテレビの全国ニュースで
自分の母校の中学校で
イジメ自殺事件が起きたことを
知りました。
正直、かなりショックでした。
「あー、厄年って本当にあるんだな」
って思いました。
しかも、あとに知ったことですが
自殺した女子生徒の父親は
私のしっている人でした。
さらに、これもあとで
知ることになるのですが
自殺に追い込んだ加害生徒の親たちも
私のしっている人たちでした。
狭い街ですから、浪岡は。
私の青森に関する記憶は
1997年で止まっています。
詳しいことはあとでまた書きますが
1997年当時、私は
弘前大学教育学部
中学校英語科の3回生だったのですが
色々ありまして青森にいることが
ほとほとイヤになりまして
10月に逃げるようにして東京へ行き
弘前大学を自主退学し
そこから三ヶ月後に
センター試験を受けなおして
横浜国立大学へ入り直しました。
それ以降は実家の
祖母の葬式
祖父の葬式
弟の結婚式
以外
盆、正月を含めて
一切、青森には帰らない
という選択をしてきました。
まぁ「オマエはこの家の人間ではない」
という扱いをうけていたことも
ありましたけど
それでいいや、って思ってました、
それでめっちゃ快適で幸せだったし。
私は青森を棄てた人間です。
もう生涯、二度と
青森に帰ることはありません。
これは確定事項です。
ただ、
2016年 8月27日 41歳の誕生日に
浪岡中学校のイジメ自殺事件が起きたことを
大阪市の自宅で全国ニュースで
知った時
私は大きな人生の決断をせまられました。
「このまま放置していた場合
おそらく浪岡の連中は
イジメそのものを隠蔽しにかかるだろう」
これは直感で
すぐわかってたことです。
そういうのがイヤで青森を棄てましたから。
また、イジメ自殺そのものを
隠蔽して、そのあとは集団で
「あれはなかったことにしろ」
と徒党を組んだ加害者親子連中が
同調圧力をかけまくって
まわりを黙らせ
その上で加害者親子らは
デカいツラして
何事もなかったかのように振る舞い
ほとぼりが冷めたころ
また、誰かを自殺に追い込んで
「娯楽」として
それを行うであろう、
これも容易に想像できましたし
案の定、そうなりました。
ここで私が沈黙したら
また、惨劇が繰り返されるのは
間違いない、とわかっておりました。
ここで私が沈黙したら
私はそれを、わかっていた
「追認した」ということに
なります。
イジメ自殺事件の犯人たちを
「許すか許さないか」ではなく
また、やらかすぞコイツら
とわかっていて、それを
「認めるか認めないか」
という話です。
私は「それは認めない」
という決断をくだしました。
自分の人生の中でも
かなり覚悟のいる
決断でした。
続きは次に書きます。