映画「オッペンハイマー」は日本で公開できるのか?→ムリだと思う
映画「インセプション」とかで有名な
クリストファー・ノーラン監督の
映画「オッペンハイマー」は
全米大ヒットを記録し
興行的には世界的に成功している。
今年度のアカデミー賞の本命候補筆頭
でもある。
日本以外のアジアだと
韓国、中国、台湾など
日本「以外」の国々では
公開されている。
アメリカ本国では映画館での興行が終わり
DVDが発売されたり
ネット配信も開始された。
世界的に大ヒットし
今年のアカデミー賞の大本命
と言われているのに
なぜか、日本では
公開されていない。
公開のメドもたっていない。
それどころか
少なくともテレビ、新聞、週刊誌
といった大手メディアでは
そもそもこの映画の存在自体が
「なかったこと」にされている。
なぜなのか?
理由は明白である。
オッペンハイマーという人物は
第二次世界大戦中に
アメリカの
原子爆弾開発の総指揮者だった人物
だからだ。
この人がいなかったら
広島と長崎に
原子爆弾が投下されることは
なかった、
つまり、あれほどのむごい
惨劇は起こらなかった
ということになる。
くわえて今年は先進国首脳会議が
広島市で行われたし
現職の日本の総理大臣 岸田氏は
被爆地、広島の出身である。
なにも、わざわざこのタイミングで?
ってのは日本人の私からしたらある。
実は私、だいぶ前に
この映画の原作本を
読んだことがある。
それを読んだときに
いくつか浮かんだモヤモヤが
あって、それは
いまだに未解決なんだけども
それらの疑問点は
結局、映画化された本作でも
なんら解決されずに、というか
意図的に触れるのを避ける形で
スルーしてる感が多分にあって
そこがすごくイライラするのだ。
映画にしろ書籍にしろ個人の
「伝記作品」というのは
「真実の物語」でなければならない。
それゆえに内容の正確性が
まず最優先される。
ここで問題なのは
「何を描き、何をスルーするか?」
という恣意的な問題が
発生するリスクがある、という点である。
原子爆弾の開発に関わった
アメリカ人を描いた作品を
アメリカ側からプロデュースするわけだから
アメリカという国にとって
都合の悪い情報は意図的に
削除され避けられる形で
作成される可能性が
多分にある。
そうなると国家による
プロパガンダ作品でしかないのだけど
案の定、この作品にも
そういった部分が散見される。
こっちが一番知りたい部分を
意図的に避けて隠しても
映画ならば、それを逆手にとって
「ミステリアスな雰囲気」
という演出で
むしろ魅力的なストーリーに
することもできる。
そこらへんのズルさが
被爆国、日本人としては
非常に腹立たしいわけでして。
原作本を読んだ時点で
「あれ?」って思う部分が
いくつかあるので
今回はそれについて書いてみる。
なにも知らない人向けに歴史のあらましから説明すると
アメリカが極秘のうちに開始した
原子爆弾の製造計画、「マンハッタン計画」の
はじまりは
「物理学の世界で核分裂というものが発見され
それが将来的に兵器として応用された場合
とんでもないことになる。もしも敵国が先んじて開発に成功し
それが自分たちの国への攻撃に使用された場合
自国は破滅的な損害をこうむることになる」
っていうのが物理学者の世界からまず起き始めていて
で、第二次世界大戦中に
「どうもドイツが核兵器の開発をやってるらしい」
という話になった。
「ドイツに先こされて核兵器つくられたらマジでヤバいっすよ」
と、アメリカ大統領にアインシュタインが親書を
送ったことがきっかけで急遽、アメリカは国家事業として
原子爆弾の開発を極秘に始めることになる。
余談だが戦後、アインシュタインが来日したとき
湯川秀樹に対し
「自分の親書のせいで広島と長崎があんな事になるとは、、、
申し訳ない、、、、」と
涙ながらにアインシュタインは謝ったそうである。
さらに余談だが
戦時中、実は日本も核兵器の開発を試みていた。
結論として「これ、実現するのには100年かかるわ、資金的にも
物量的にもムリ」となって頓挫している。
歴史にif「もしも」はないが
もしも当時の日本軍がアメリカにさきがけて原子爆弾の開発に
成功していたならば、日本軍は躊躇なく
アメリカ本土に対して核兵器を使用していたと私個人は思う。
アメリカが極秘に開発を開始した「マンハッタン計画」
色々な説が飛び交っていてどれが真実なのか、わかりかねる部分もあるが
一説には計画開始から広島、長崎への投下までの4年間で
当時のお金で2兆円、
当時の日本の国家予算50年分の予算が
この計画ためだけに使われたという。
どこまで本当かはわからないけど
膨大なヒトとカネがかかったのは事実である。
で、マンハッタン計画で原子爆弾の開発に
最終的に成功するのは
1945年7月16日なわけで
その二か月前の5月にドイツは全面降伏している。
なので、そもそもの話として
「ドイツに先こされたらヤバいって理由だったわけだし
ドイツが負けを認めちゃってるから、この計画
もうやめてもよくね?」って話なんだけども
実際には計画は続行され、最終的には
広島と長崎に投下され
一般人が大量に虐殺された。
ここら辺の経緯については
戦後、GHQで日本の占領でトップになる
マッカーサーが回顧録で
「実戦で原子爆弾を使用しなくても、日本はもう
詰んでるし、終戦に応じる用意もあるから
使わなくてもよくね?」と
当時のトルーマン大統領(軍人出身)に伝えたところ
トルーマン大統領は
「ここまでカネつこうたんねや、どんなもんなのか
いっぺんつこうてみぃひんことには収まりがつかへんやろが」
と応えた、というエピソードがある。
おそらく、これは本当であろう。
映画「オッペンハイマー」でも
原作本でもそうだが
開発総責任者でリーダーをつとめていた
オッペンハイマー自身が
原子爆弾が実戦で使われることについて
事前に知っていたのかどうか?
ここらへんについては
一切の情報がない。
私なんかは「いや、そこが一番知りたいところなんだよ!」と
ツッコミ全開なわけだけども
驚くほど一切、この手に関する情報は原作本ふくめ、ない。
これについて、あくまで私個人の仮説だけども
「オッペンハイマーって広島と長崎に原爆投下されること、
事前に知ってたよね?」っていうのがある。
その根拠となるのは「トリニティ試験」という
実験の名称だ。
映画「オッペンハイマー」でもこの
「トリニティ試験」、人類初の核実験のシーンが
ひとつのクライマックスとなる。
トリニティ、という英単語は
おおざっぱに言うと「3つ」という意味。
通常はキリスト教における
「神、キリスト、聖霊、これら3つは
同一である」とする
三位一体(さんみいったい)説のことを指して
トリニティ、という言葉を使う。
ドイツが全面降伏したあとの
1945年 7月16日
アメリカ ニューメキシコ州
アラモゴード砂漠にて
人類初の核実験が行われ、そして成功した。
これについて、核実験を目撃した
総指揮者のオッペンハイマーは
「世界はもう二度と元には戻らないと
我々は知った。
ある者は涙を流し、ある者は笑い、
そして、ほとんどの者たちは
言葉を失った」
と発言している。
こういう部分の描写について
映画「オッペンハイマー」はちゃんと描いていない。
そこら辺はズルいと思う。
それだけではない。
トリニティ実験から
ちょうど、ぴったり、きっちり
3週間後の
1945年 8月6日
日本の広島に
原子爆弾が投下された。
その3日後に
長崎に
原子爆弾が投下された。
3週間と3日の間に3発の原子爆弾が
地球上で炸裂したわけである。
繰り返すがトリニティ、という英単語は
「3つ」とか「三位一体」を指す。
これは偶然なのか?
偶然にしては
あまりにもよく出来すぎている。
一般的には「トリニティ実験」というのは
あくまで7月16日のアラモゴード砂漠で行われた
核実験「のみ」をさして使用されているが
実際のところは
アラモゴード砂漠
広島
長崎
にて
これら3つの原子爆弾の使用(実戦での実験ふくめ)
を総称して「トリニティ試験」と呼んだのではないか?
というのが私の仮説だ。
そして、もしも、この仮説が正しかった場合
オッペンハイマー自身
実戦での実験として
広島と長崎に
原子爆弾が投下されることを
事前に知っていた、ということになる。
オッペンハイマー自身
「なぜ、実験名がトリニティなのか?」
「広島と長崎で実戦で使われることを
事前に知っていたのではないか?」
という疑問については
生涯にわたり、こたえをはぐらかした。
原作本でも映画でも
この疑問については全力でスルーされている。
ここら辺の部分をあいまいにしてスルーしておいて
「自分が開発した核兵器が広島、長崎で使用され惨劇が
起こってしまったことに対する天才物理学者の苦悩」
みたいなストーリーでガッチガチに作られてこられても
こちらとしては
「はぁ?」って
話であって、シラケてしまうのである。
一般的な弁明としては
「世界から戦争をなくすために『これ使ったら人類滅亡しちゃうよ』
って兵器をつくることで戦争の抑止をねらって原子爆弾の
開発に携わったけども、それが実戦で使用されたことを知って
オッペンハイマーは絶望した」みたいな弁解があるけど
私個人としては、この話はかなり嘘くさい、と思う一方で
「世界から戦争をなくすために『これ使ったら人類滅亡しちゃうよ』
って兵器をつくることで戦争の抑止を狙った
という点においては「あ、」と思うところがあって
それは
「オッペンハイマーって原子爆弾の製造方法、
わざとソ連(今のロシア)に流出させてたんじゃね?」
という疑問である。
映画でも描かれてるけども
オッペンハイマーは共産党員(いってみればロシアのスパイ)
のオンナと恋人関係にあった時期があるのは
事実である。
どこをどう考えてみても
アメリカがあれだけ膨大なカネとヒトを駆使して
なんとか開発に成功した原子爆弾について、
ソ連(いまのロシア)があれだけ短期間のうちに
単独でゼロから開発を開始して
核兵器の製造にこぎつけれた、というのは
ムリがある。
やはり、アメリカ側のスパイがソ連側に情報を
流していた、というのが現実的だろう。
実際、アメリカではローゼンバーグ事件
というのがあって
ローゼンバーグ夫妻がソ連側に
核兵器製造に関する軍事機密を流出したとされ
夫妻は死刑判決を受けた(実際に死刑も執行された)。
これらの一連の疑惑に
オッペンハイマー自身、かなり深く関与してたんじゃね?
っていう疑問がある(実際、彼は後年、公職追放されて
終生、政府の監視下にあった)。
資本主義国のアメリカと
共産主義国のソ連が
それぞれ核兵器をもち
この2つの超大国の軍事バランスの均衡のおかげで
「冷戦」状態ではあったけども
核兵器を使用した世界大戦というのが回避できてたのは
歴史上の真実である。
オッペンハイマーがそれを意図して
故意に原子爆弾の製造技術をソ連側に流していたのではないか?
という疑惑は現在をもってしても
解明されていない。
オッペンハイマーも死ぬまでこれについては明言を避けた。
そこらへんをダマしダマしスルーされて映画として
見せられても
やはりこちらとしては
「はぁ?」
とシラけてしまうのだ。
はい、私は性格悪いです。
で、一番問題なのは
「広島、長崎で実戦で原子爆弾が使用された際の直接描写が
一切ない」という点である。
これ、わざとやってるだろ?と。
かろうじて、広島・長崎で起きた惨状について
スライドショーで見せられた主人公が
それを観て愕然としている、という表現にとどまっている。
もちろん、そのスライドショーの内容は
オッペンハイマー自身が見ているだけで
その惨劇の内容を映画を観ている側は見ないし、知らされない。
これがこの映画の持っている最も卑怯な点であって
このせいで私はこの映画が生理的に嫌いなのである。
この映画が世界的に大ヒットできたのは
広島、長崎の直接的な描写を一切排除したからである。
バカ正直に
「実際に使われた結果、こんな惨劇がおこりました」
という描写を
バカ正直にやれば、ほとんどの人には
PTSDになりそうなトラウマの経験となるであろう。
「二度と見たくない、こんな映画」となるであろう。
だから、意図的に広島と長崎の惨状についての
描写は一切排除してある。
1945年 7月 16日に行われた
アメリカ ニューメキシコ州 アラモゴード砂漠で
行われた人類初の核実験「トリニティ試験」は
あくまで、周囲にひとっこひとり居ない
砂漠のド真ん中で行われた核実験である。
それを映画の世界で
大画面で大音響で
「ドーン!!!!!」
「ガシャーン!!!」
「ブワー!!!!!」
とかやられても、
それは
どこまでいっても他人事であり
一大スペクタクル、で済まされる話である。
https://www.youtube.com/watch?v=JLwbyLM5r3U&pp=ygUS44Gv44Gg44GX44Gu44Ky44Oz
やろうと思えば、このシーンを実写化することだって
十分できたハズだ。
けど、しなかった。
わざとしなかった。
あえてしなかった。
だって、これを実写で描写したら
号泣する人がでたり
その場でゲロ吐く人がでたり
オシッコ漏らす人がでたり
する人が続出するのが事前にわかっているからである。
まぁ、トラウマになるでしょうね。
「原子爆弾の開発に携わった総指揮者の真実を描く」というのであれば
絶対にここの部分の描写は避けられないんだけども
この映画は、わざと逃げた。
そうすることで描写をマイルドにして
誰もが気軽に見れるような話へと改変していった。
その結果、興行的に大成功した。
「原爆製造の父」の自伝を映画化する、というのであれば
実際に原爆が投下されて
人々がむごい死に方をしていく部分を
きちんと描写すべきだと、私は思う。
この映画はそこから逃げた。
そこがすごく気に入らない。
「孤高の天才物理学者の成功と挫折、そして苦悩」
みたいな話に矮小化されちゃって
そこにちょっとしたサスペンスとかミステリー要素を
加えれば
「娯楽作品」としては成立するけども
日本人からしたら
「おい、ふざけんな!!!」って話なわけである。
しかも、こっちが一番知りたい疑問については徹底的に逃げるし
一番描写すべき惨劇についての描写からも徹底的に逃げてる。
まぁ、一つの歴史的資料として原作本を読むぶんには
まだ話はわかるけども
「これが真実です」みたいな形で
この映画が世界的に伝播していくのは
いただけない話だと
私は思う。
以上の理由から
この映画の日本での公開は
きわめて難しいのではないか、
と思っている。
DVDとか動画配信で観るぶんには
個人の自由として
わかるけども
映画として個人の伝記を公開するのであれば
「これがすべての真実です」という
ことになるので
そこは「ふざけんな」という気持ちに
個人的にはなる。
以上、あくまで個人の感想でした。