私らしさを探してパッケージ化したい
「ほんとに何でもできるよね」って言われることが増えてきた今日このごろ。言われるたびに「何もない」って言われてるような気持ちになるのはなんでだろう。
「物事はだいたいは真剣に取り組めばそれなりにできるものでしょう」
中学2年生のときにこれを悟ってからずっと、何かに偏って熱中できる人に憧れ続けている。
中学1年の時に惰性で入った華道部を辞めて、中学2年生からソフトテニス部に転部しようかと見学に行ったことがある。
当時仲良くしたかったクラスメイトがソフトテニス部だったから誘われるままに行っただけの、やる気も何も別にない見学だった。
ソフトテニスがやりたいわけじゃないけど部活に入ったら部活で友達が増えて、なんかいい感じの学生生活になるんじゃん?みたいなことを考えていた気がする。
ソフトテニスもなんか余裕でできるでしょって思ってた。
でも、コートの横のベンチからクラスメイトの部活の様子を見ていたら、クラスで運動が特別できるわけではない子たちがボレーの練習をスムーズにこなしていてびっくりした。
自分は体育はできる方だったし、「たった1年前」にソフトテニス部に入ったクラスの子達がなにか上達してるなんて想像もしなかった。
「あぁ、体育が得意なわけでなくてもなにかを続けたら、その日始めた人より上手くなるんだ。」
そんな当たり前の事に気付いたのがその時だった。
誰だって何かをやればそれなりに上手くなれる、今日やる人よりも1年前にやってる人のほうがうまい。打ち込んだ時間と、熱意次第で、誰でも・どんな物事でも絶対上達する。
逆に、自分がやりたいことが目の前出てきた時に、特別に夢中にならないと、そこそこの枠を抜けられない。
特定の分野でバリューを発揮できている人は、そんな夢中になれるものを見つけられて続けられた人なのだろうと思う。
こんな考えを持ったまんま色んなことに取り組んではそこそこの真面目さで取り組んで、気づいたらそれなりに上手くはなれるのに、夢中になれるものに出会えないまま30歳を過ぎてしまった。
「そこそこにできる」のそこそこは本当にそこそこだ。
仕事が簡単に成果を測れるから仕事で思い出す。
合格平均60%の資格試験なら大体80%の達成率だ。
職務はデザイナーをしてるけど教育係をしてみたり、SNSを運用してみたり、ディレクションもしたり、マーケもかじってみたり、会社から求められるままに色々なことをやって。
広げた風呂敷が思ったよりも大きくなっていて、ふと、自分の軸足がないことに気づいた。
どこのシーンでも自分を駆り立てたのは、「やったらできないはずがないだろう?」という当たり前精神で。
心からやりたくて仕方なかったことが見つからなかった。そんなものないよって理論もあるけど、そこそこにしかできないからやっぱりひとつのことに夢中になれる人が羨ましい。
軸足のない器用貧乏は、今いる場所ではバリューを発揮できるけど、たとえば転職などで外の世界にでたら価値が崩落するんじゃないかと思っている。
たとえばフリーランスになったりして、外に1人で立った時にもいい感じでやっていきたい願望がある。
そのために「私らしさ」をパッケージ化して、自分という製品にコピーが付いて「これをする人」になりたいし、何かに特化して尖りたい。
こんな悩みをいつまでも抱えているのは、幼いのかなと思うこともある。
みんなこういう感覚にどうやって折り合いをつけているんだろう。
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