『当事者は嘘をつく』を読んで④~「支援者」をめぐって~
「私は研究に至った経緯をこんなテンプレートで語ってきた。『私は性暴力被害者の支援活動に参加していました。私は心理職ではないので専門的な支援はできませんでしたが、サバイバーとの出会いが私の研究の出発点です』」(p. 2)と話す筆者はしかし研究においては、「私は支援者との協力関係を望んでおらず、徹底的な対立関係を求めた」(p. 92)としている。
「性暴力被害者」の当事者経験をひきずりながらも「研究者」を名乗る小松原はしかし、ぼくに言わせればとてもお粗末な認識の下に他分野の「支援者」批判を展開する。
たとえば、浦河べてるの家のソーシャルワーカーである向谷地生良が展開した当事者研究について、「私は『当事者研究』のなかに、当事者の生々しい言葉をすべて『回復』の言説に回収しようとする支援者の欲望の匂いを嗅ぎつける」(p. 93)。
修論でべてるの家の実践のソーシャルアクション、社会運動としての側面を描き出したと自負している自分としては、なんて浅い理解だと怒りすら覚える。同時に、そのように見えやすいような理論化をある面では担っている東大先端研に対して、いら立ちも覚えるわけだが…。ここら辺は、今後書いて行くことになる博論の自分自身の大いなる宿題だと認識している。
そもそも小松原は、「当事者と支援者の和解を掲げる向谷地の発想」(p. 93)に至る精神保健医療福祉分野における当事者運動の衝突や軋轢の歴史をどの程度押さえているのだろうか?甚だ疑問だ。
小松原は、縁あって熊本県は水俣をフィールドとして、「『当事者ではない立場』から研究をすること」(p. 157)になっていくのだが、そこでも、水俣という地域において起きていたことなどの文脈などを熟慮せず、彼女に言わせるところの「『当事者』へ物申す権利があると主張する『支援者』」(p. 159)と彼女が目した人物に対して、水俣に行くに際して、「『この人は敵になるだろう』と思っていた」(p. 158)などと述懐している。
ぼくとしてはいろいろ言いたいことや批判点があるのだけれど、水俣にフィールドワークをしていく中で彼女自身気づいていったこともあるようだ。
敵になるだろうと思っていた人と実際に会ってみると筆者は、「どうも私の知っている支援者のノリとは違うぞ、と考えていた。深刻そうな口ぶりで、専門家としていかにも可哀想な当事者のことを語っている支援者とは全然違う」(p. 160)。彼女は水俣の地で行く先々でもてなされてしまい、「研究者」としてフィールドに来ているはずなのに話を聞いてもらう立場になりがちな展開に陥りがちなことについて、最初こそ戸惑っていたとしている。
「私はこんなふうに接してもらえて嬉しいという気持ち半分、研究者としてこれでいいのだろうかと不安な気持ち半分であった。それと同時に、ここで誰が『当事者』『支援者』『研究者』であるのかを考えることはナンセンスだとも思った」(p. 161)。
筆者は水俣でフィールドワークを重ねていく中で、水俣の「社会運動史に目を向けるようになった」(p. 176)としている。それによって、「私のいた2000年代の性暴力被害者の社会運動は、1970年代の水俣運動だった」と気づけたという、それは「つまり、当事者が被害を告発し、加害者を裁判のなかで追及し、責任を取らせようとする時代だったのだ。そんななかで、私は修復的司法についてばかり語っていた」(p. 177)。
「水俣にきて私は時間の流れのなかで当事者と支援者の関係は変わっていくことに気づいたのである」(p. 171)。
「博士論文を書きながら、『支援者』と闘う『当事者』であった」(p. 158)という自己/当事者像を大いにひきずっていそうな小松原の「支援者を語る視座」、「支援者についての語り方」に触れるにつけモヤモヤしていたぼくであったが、ここまで読み進めて、あ、なんか、あなたの中でやっと、すこしは相対化できたんですかね??と安堵した記述であった。
小松原の自身の文脈における支援者と対立していく物語は、たとえば以下のようなシンポジウムの情景と共にふりかえられる。
「ある公開シンポジウムでは、性暴力被害者がパネリストとして登壇し、被害経験を語っていた。その被害者は言葉につまり、うまく話せなくなってしまった。そのとき、隣にいたフェミニストであり、DVや性暴力の被害者支援を専門とするカウンセラーがこう言った。(改行)『みなさん、被害者っていうのは、こんなふうに話せなくなってしまうことがあります。だから、私たちが隣にいて、解説する必要があるんですよ』(改行)フロアの参加者の多くは『うんうん』と頷いていた。だが、私は頬が紅潮し、血が沸騰するような怒りで爆発寸前だった。まるで、野生動物の生体展示のようだと思った。珍しい生き物を観衆たちがまじまじと眺め、支援者がそれを解説している。」(p. 71-72)。
これは怒ってもいいと思う。
思うけど、「性被害者」の文脈における「支援者」と異なる分野やフィールドの文脈における「支援者」とで、当たり前だがいろいろ差異が出てくる。もちろん少なからず共通点も出てくるとは思うけども。
そんな相違へのケアが足りず、「支援者」とひとくくりに警戒したり、敵視しがちな小松原の姿勢は、ぼくにはとても「研究者」には見えなかった。彼女の「支援者についての語り方」は全く、クレバーではなかったのだ。
ぼく自身、小松原の語りを通じて気づいたことがあった。
ぼくはインター・セクショナリティだ。大別すると、虐待サバイバーで精神科ユーザーだ。精神科ユーザーとしては、支援者との関係や支援・治療内容に概ね満足してきている経験がぼくにはあった。一方、虐待サバイバーとしては、どうして我が家は危機的介入が必要な支援対象として救われなかったのか?という疑問が心の中に残り続けている。
社会福祉学やソーシャルワーク、児童相談所に対する圧倒的不信感。いろいろな要因が重なって、危機的介入の対象として認定されなかったけど、あのタイミングで支援の対象になってればなと以前はよく思っていた。
「誰か助けてくれよ…」といつも、この30年間思って生きてきていた。
30歳目前で、いつまでも他者に助けて欲しいと声を出し続けるのは違うな。30まで生きるなら、てめえの人生の責任はてめえ自身で引き受けないといけないな、と気持ちを切り替えていくことにはしていったけれども。
これに対して小松原は、「私の腹の底には支援者に対する「わかってほしい」という心がある」(改行)だからこそ、私は「わかってくれない支援者」の言葉に逐一、とり乱し、傷つき、怒り、反論しようとしているのだ。(p. 97)
その限りにおいて、「わかってくれない支援者」の前でとり乱す小松原のあり様は、素朴な反応、あるいは“反動”でしかない。
ぼくはわかって欲しいとは思わない。
わかって欲しい人間は、「研究者」「当事者」「ピアスタッフ」でもなんでも、好きなように君の文脈で俺のこと判断しろ…!なんて他者が抱く自己イメージの統制やコントロールを簡単には断念しないだろう。
ぼくは、小松原よりも闘う「当事者」というポジショナリティから相対的にはるかに降りている。
現在、大学院の後輩に児相で働いている人がいるけど、その人を前に過去の自分の傷をどうこうしようとも思わないし、問い詰めようとも思わない。冷静に対応できる位には大人になったし、自分自身落ち着いたんだなと思う。
第一、別に支援者だって人間だ。
万能でもないし、却っていない方がいいような場合もある。
それは自分自身、「支援者」として働いてきた経験からもよく思うことだ。