福岡から福島へ

帰福後、関東滞在中の疲れなども相まって数日間くたばっておりました…。今も喉風邪をひきずっております。。が、喉風邪にも負けず、投稿論文の執筆に励んでいます(エライ!)。

※最近野家啓一(2015)『科学哲学への招待』を読んでいたら、学会の査読を英語では「peer review」と記述すると知って戦慄しました。この「peer」は同僚って意味だろうなとは思いつつ。

表記の件について書こうと思います。
一部の人には、既にお伝えしている内容になりますが、この度、ぼく川田八空は、福岡から福島へと生活拠点を移す予定です。

予定では、二週間後の19日に福岡を発ちます(ハヤイ!)。

おおまかにはなりますが、経緯を以下に記したいと思います。

きっかけは、6月30日から7月10日までのイタリア視察旅行です。
毎晩、メンバーの部屋に集まって、視察の感想などをあれこれ語らう時間がありました。ぼくがその場で、毎晩、思ったことを感じたままに話していると、福島から参加していた精神保健医療福祉の現場で働く視察仲間からお誘いがきたのです。

イタリアで福島に呼ばれちゃったわけです。

ぼくは夢中になって7月、8月と福島県の相双地域に赴きました。

自分が「福岡から福島への移住を決意した大きな要因」と相双地域に赴いた際の話をすこし書いてみたいと思います。

移住を決意した要因は大きく3つに分けることができます。

①イタリア視察で日本に持ち帰ってきた宿題に、日本でも引き続き視察仲間と共に精神保健医療福祉の現場で働きながら、取り組むことができる、考え続けることができる。
イタリアで感じてきた「人として」を大事にする「インクルーシブ」の感覚を日本に伝えるなり、現場レベルに落とし込もうとするなり考えた時、とても一人では扱い切れない、考え続けることができないと思っていたので、本当にありがたい提案でした。
旅は道連れ世は情けってね!

②自分の経験が相双地域の精神保健医療福祉で活きる部分がありそうな気がしたこと。
蟻塚亮二・須藤康宏(2016)『3.11と心の災害 福島にみるストレス症候群』や蟻塚亮二(2023)『悲しむことは生きること 原発事故とPTSD』などを読んで、相双地域の精神保健医療福祉の現状や東日本大震災が地域に及ぼし続けている影響などについて学びました。7月に震災遺構を見学したり、本を読んだりしていくうちに、自分には「被災経験」はないけれども、「PTSD」に関しては重なる部分結構あるし、もしかしたら自分の経験が活きるかもしれないな~と思うようになっていきました。
あるいは、蟻塚(2023 : 7)が「震災その他からの回復の要点」において、「何よりも大切なことは、トラウマの体験者に対して、聞く側が『そんなに大変な出来事を体験されたのに、よくここまで生きてこられた』とリスペクトする姿勢である」と説いている姿に強く惹きつけられた、と言ってもいいかもしれない。
「リカバリーストーリーの語り手」や「力のある当事者」という役割を敢えて引き受けたり、あるいは他者から一方的に見なされたりする関係の中で、そのような存在として振る舞うことを強いられるより、むしろそのようなリスペクトをこそ、平場で他者から向けられたい…!ぼくのこころの中のどこかがそんな声を挙げたのかもしれない。

③視察仲間から「八空さん、ぜひ一緒に仕事しましょう!」と呼びかけられたこと。
福島県の相双地域の現場では、正社員として働く予定です。
7月に福島の相双地域に遊びに行って、いろいろ見学させてもらって、その感想をまとめたものを視察仲間に送って、それに対するレスポンスの中で上記のような呼びかけをされました。
障害者福祉や精神保健医療福祉分野でいろんな雇用関係をぼくなりに経験してきたつもりですが、こんなに真っ直ぐな呼びかけをしてきてくれた人はこの人生においていなかったと思います。
とてもありがたくて、すごく嬉しい呼びかけでした。

先に白状をすると、最近、福島という新しい環境に移住して精神保健医療福祉分野で正社員として支援者として働くことに対する不安のようなものを漠然と感じている自分がいます。

ふりかえると、福岡移住の際はこうした不安が一切なかったので、本当にどれだけ当時の自分は関東から逃げ出したかったのだろうと思います。とにかく“解放感”がヤバかったんだなと。

7月に震災遺構や原発資料館を見学していた際、ぼくの頭の中に大きな疑問が湧き上がってきていた。

「東日本大震災で被災者にもなっていない、知っている人で亡くなった方もいない、原発事故のせいで故郷を奪われたなんて…そもそも根無草って感覚が強いから、そんな感覚まったくわからない……。そんな人間が相双地域という原発の影響を強く受けているであろう地域で、支援者として何ができるのだろう…??」

相双地域で長年支援職として働いてきている視察仲間に思わず質問しそうになっていた。けど、質問する前に自力でその問いに回答を導き出すことができていた。

「それこそ、話を聴かせてもらうこと。人間として対峙して、かかわること。時にはプロの支援職として、ソーシャルワークのアプローチを用いたり、心理的なアプローチを用いたりすること。…これ位しか、結局できないんじゃないかな~って、上記のような疑問はあったんですけど、自分の中で答えを作り出すことができました」などと視察仲間に話していました。

あの時、自分で回答を作り出せて本当によかった。
新生活、いろいろ不安はあるけど、ここはぶれずにいられそう。

加藤真規子(2009 : 55)さんは、著書『精神障害のある人々の自立生活 当事者ソーシャルワーカーの可能性』の中で、自身が運営するこらーるたいとうにおけるピアスタッフについて、本人がありのままの姿で「『「支援者』」や『「サポーター』」となり、社会資源となりうることを証明した活動である」と説明している。もちろん、こらーるたいとうという場や組織において、ありのままの姿が社会資源になるような人を選んでいる部分はあるらしかったけども、自分もそんな環境で働けたらな~と脳裏を過ることが最近とても多いので引用してみた。

イタリア視察には、精神保健医療福祉分野の「当事者」「研究者」「支援者」の立場で、それぞれ立派な実績や業績のある方々が参加していました。そんな空気に中てられ、自分ももっと頑張らなくてはとか、そういう刺激にもなりました。

ぼくは自分で自分のことをしばしば、「当事者」としても「研究者」としてもとても中途半端だ…と感じているし、そのように自分を攻撃しがちです。今までの障害者運動や障害学との関係を通じて出会ってきた「当事者」や「研究者」が自分の中の理想型?理念型?のような「当事者像」や「研究者像」としてあって、「そこへと至れない自分」はダメな奴というか、そんな気分。

「支援者」としては、相対的に自由でいられている気がする。

そんな自分の中で潜在的に前提されていた「当事者像」や「研究者像」の存在に気づいてから思うのです。

いろいろ中途半端かもしれないけども
時と場合や状況に応じて

こんな「当事者」もいるんだよ~
こんな「研究者」もいるんだよ~
こんな「支援者」もいるんだよ~

って、別に胸を張る必要はないけれども
人に対して言える自分でありたいし、なりたい
今までみたいに自分を攻撃する必要もないのかなって

こういう人もいるんだよ~(ニッコリ)

ってできるように、居直るのでもなく、ここの地点で丁寧にいろんなことを積み上げていきたい。

対アカデミズムは、「当事者として殴り込みに行く」位の気概で行かないとヤられる……とか思っていた節ありますが、「当事者」として声を挙げるのではなくて、自分が見えている世界をアカデミズムのお作法に沿って粛々と論文を書けばいい……。

やっぱりグロテスクさは拭いきれないけど、今までよりはいろいろ力が抜けていい感じだ、きっと。

さて……、引き続き、論文執筆と引越し作業頑張ろっと。

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