①~「精神保健医療福祉システムを変革する当事者」として働く~

いろんな職場に顔を出し始めるといろんなことを言われる。

グループホームの責任者の方には、「やそらさんの人柄やそのピアとしての経験もあって、利用者さんもいろいろお話しやすいと思うんですよね」云々

自立生活訓練の方のひとりには、自分の身の上やどうしてその施設で働き出すようになったのかを軽く説明すると、「じゃあやそらさんは当事者なんだね」と言われた。

たとえば自分がひとに自分が福岡市にわざわざ越してきて、精神保健医療福祉分野で働き始めた経緯を話すとこんな風になりやすい。

「もともと重度訪問介護という制度を使って、一度に15時間前後ひとつ屋根の下ふたりきりで過ごすみたいな業態の事業所に7年以上勤めていて、障害者福祉分野に10年位いるんですけど、修論で精神障害分野の当事者活動についてまとめまして、それが評価されて去年の12月に福岡市内で行われた日本ピアスタッフ協会の全国大会の分科会の講師を務めることになったんです。で、その講演を聴いてくれた方に誘われる形で福岡にきました。ぼく自身、もともと精神科ユーザーとしての経験が10年位あって、いまはもう精神科通いは主治医とも話し合ってやめに決めたんですけど、まあ一応いまでもカウンセリングは使ってますね。だからまあ、精神科ユーザーでいわゆるピアスタッフではあるとは思うんですけど…」

なんとも歯切れが悪い。
日本で公的に「精神障害者」を名乗るとすれば、それは手帳保持者だろう。ぼくはいろいろあったが、手帳は取らないという選択をし続けた。だからぼくは「精神障害者」ではない。
これは、ぼくの考え過ぎという意見もあると思うが、日本の「ピアスタッフ」とは主には退院促進支援の文脈で活用されている。だから、そこで従事する人はぼくのイメージでは、「精神科病院への入院経験者」がやった方がより適切なのでは?と思っているところがある。しかしぼくにはそのような経験はない。そのため、「ピアスタッフ」を名乗ることに違和感や抵抗がある。「当事者」を名乗らないのは同じで、「手帳も持ってないような奴」が名乗るのもな~という気分がある。

ぼくの脳内イメージに、どこか「正統な当事者」や「正統なピアスタッフ」のようなモノが理念型としてある。ぼくはそれらに該当しない。

もっと言えば、「あなたが言うその『当事者』って、どういう意味で使ってる?どういう存在を想定している?どんなイメージとしての当事者?」と本当は、質問が矢継ぎ早に出てきそうなところもある。絶対しないけど。

ピアサポート講座の実行委員のひとりで、長年当事者活動をやってきていたり、ピアスタッフ等としても精神保健に携わってきた方にも酒の席で指摘されたが、「手帳も取ってないのにさも当事者面して研究をするなんて欺瞞」であり、ある種の当事者たちからしてみれば、「敵」と認定されてもおかしくない、そういうポジショナリティにぼくはいる。

そんなことは、ピアスタッフのFさんに、「やそらさんは、ピアスタッフや精神障害者は名乗らないけど、研究者は名乗るんですか?」と尋ねられる前から承知していた。

インター・セクショナリティを名乗ってみたり、いろんな当事者性を列挙してみたりもするけども、どれを挙げてもイマイチ物足りなさをぼく自身感じている。

「虐待サバイバー」にしてみても、身体的虐待・性的虐待とはほぼ無縁だ。

「宗教二世」と言っても、TVで世間の耳目を引いている幸薄気な若い女性が涙ながらに語るようなお涙頂戴!みたいなエピソードは別に出てこない。数千万円の献金が発覚しても、どこかの凶弾を発砲した当事者の家庭のようには、我が家の家計は傾かない。

不登校といっても、たがたが社会的定義からみれば高校の二年間だけだ。
ひきこもりに関して言えば、定義からすれば「ひきこもり」ですらない。

主治医から正式に双極性障害と診断されたこともない。ただ長年炭酸リチウムを処方されて飲んでいただけ。精神科病院に入院したこともなければ、手帳を取ったこともない。

DV被害者としてのエピソードなら、自分より背の低いヒステリックな女性にぶん殴られて口の中切って流血したことあるとか、「お前なんか人間のクズだ!」と金切り声で怒鳴り散らされた経験あるから、まあまあ強いかな~?

蓄積はすごいけど、ひとつひとつのエピソードや当事者体験が弱いのではないだろうか?とたまに考え、気にすることがある。実にしょうもない悩み。

きっとぼくはどこかズレているし壊れている。

ぼくは「〇〇やそら(フルネーム)はここにいるよ!」といつでも言えるように生きていきたい、といつからか漠然と考えたり思ったりしながら、ここ15年程生きてきている。いろんな経験があって、それを自分なりに折り合いをつけて、切り捨てることなく統合しながら生きてきたのがぼく自身だ。

介護福祉士も社会福祉士も精神保健福祉士も持っている。
社会福祉学の修士号も持っている。

やはり何をどう考えても最近はこのような結論に落ち着いてしまう。

「精神保健医療福祉分野における他者からぼくに向けられるまなざしや評価は、統制不能なのだ」。他者は、他者の見たいようにぼくのことを見てくる。あちらの文脈やアクセント、リズム感でぼくを評価してくる。

ぼくは懲りずに、精神障害分野の当事者活動や支援関係について大学院で研究していて、三福祉士を活用して現場でも働いている、精神科ユーザーとしての経験もあるので、一応ピアだと思いますと言い続けるしかない。自分が持っているカードをまず全部見せてしまうしかない。

その上で、ぼくのことをどう見るか?ぼくのどこにアクセントを置くかは、相手の経験の幅や人間としての器の大きさにかかっていると思っている。

職場のピアの先輩に10月の講座で、講師として登壇予定なのだと話すと、「やそら先生!」と言われてしまった。やりづらいのはお互い様なのだろうか。知識はあるけど、現場経験は皆無なんや…。

「あんたが見たいように俺のことを見ればええんやで」基本的には、そう思っている。

そして、ぼく自身は「研究者」「当事者」「専門職」「ピアスタッフ」という肩書を、自分の都合で好き勝手に使い回せばいいのだと思っている。

ぼくはマージナルマンではあるが、それでもぼくはぼくなりに、福岡市内の現場から「精神保健医療福祉システムを変革する当事者」として、実践を積み上げていきたいと思っている。そうやって、さまざまな立場から「精神保健利用福祉システムを変革する当事者」として実践している方々と連携・協働していけたらと考えている。

ちなみにこの長ったらしい「精神保健医療福祉システムを変革する当事者」という概念は、自分が修論で練り上げた概念です。いろんな当事者や支援者、家族とか専門家、研究者という立場や枠組みに囚われず、立場を超えて、「精神保健医療福祉システムの変革を志向する人々」を集められるような実践をしてきたいな~、というぼくの壮大な妄想がこの実践理論には込められている。

この実践理論を今後骨太なモノにしていくためには今後、ぼく自身が現場でやっていくなかで理論と実践を着実に鍛え上げていく必要があるね。

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