人として共に同じを保障しようとする姿勢
※昨日の朝書きました。
いろいろあって修論を読み直している。
昨日やっと歴史部分が読み終わった。
今までは気にならなかったけど、イタリアに行ってから改めて日本の精神保健医療福祉のあゆみをふりかえると、いくつか「ん?」と思う表現が出てきた。
たとえば、
1987年に精神衛生法が改正されてできた「精神保健法」
従来の日本の精神科医療のあり方を反省的に捉え、「従来よりも精神障害者の人権に配慮した良い法律ができた」というようなトーンで語られることが多いのだけれど…、人権への「配慮」ってなんだ??とイタリア帰りのぼくは頭が❓でいっぱいになった。
辞書引くと、心配りとか心づかいと出てきて尚更もやもや、、
ほかにも司法精神医療に関する2000年頃の以下の言説。
触法精神障害者は実際には「少ないのですが、要するに障害者が共に生きる社会として社会に生きていくことを国民の方々に納得していただくためには、数は少ないのだけれども、それをどうするのかという、これに対する真摯な努力というものを国民の前に示すことが必要だと思います」
「触法精神障害者の処遇」と「精神障害者のインクルーシブ/共生」、「市民社会の承認」とか、この一文からだけでもいろいろなテーマがあるとは思うんだけど、「国民の方々に納得していただく」というのが本当に訳が分からない。
イタリアの州毎にある危機管理センターを訪問した際、「日本のような福祉避難所はイタリアにはあるのか?」という質問に、「ありません、だってインクルーシブだからね」というようなことを職員の方が即答していた姿が印象に残っています。
イタリアでは被災した方々は、避難所生活をする際、地域や通り毎にまとまって今まで過ごしてきたコミュニティや家族単位で生活できるように、というそれこそ配慮(配慮ってこういう文脈で使われるべき言葉だと思うの、間違っても「人権に配慮」とか言わないで欲しい)があるようでした。そして昼と夜の食事もそれぞれ2種類?から選べるとか。
それを聴いて、自分はもちろん被災経験があるわけではないけど、「日本なら非常時に屋根のある生活、食べるモノがあるだけいい、ワガママは言えない、そんな状況に陥りがちな気がする」とメモをしていた。それを裏付けるように松山市の土砂災害のために避難所生活をしている人が、避難生活は大変だけど仕方ないと今朝見たTVでコメントさせられていた。
そのセンターでの話を総合して、自分は以下のようなメモを残していました。
イタリア:被災者でも人としての生活を保障する姿勢
日本:被災者だからある程度の不足や不備は仕方がない
これは「被災者」の部分を「障害者」、あるいは「社会的弱者」と置き換えてもよさそうだなと思います。
被災者だから、障害者だからということで、人として共に同じ、ではなく、ある程度の劣等処遇も致し方なしとされる、思わされる社会。
そういう現実があるから、「精神障害者の人権により配慮した法律」が「比較的良い法律」と語られるのでしょうし、障害者の尊厳や人権は軽視され、人として共に同じであろうとするよりも「国民の納得」が優先される。
イタリア全土がもちろん自分が見聞したり感じたりしてきたような感覚や態度を持っているわけではないと思うけど、それでもやっぱり日本よりも社会的弱者に対して、人として共に同じを保障しようという姿勢やそういう人権感覚の強さを感じました。
今日はこの後浪江町の震災遺構と双葉町の原子力伝承館に行ってきます!
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