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関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語④

今日は急遽、近所に住んでいる高校時代からの腐れ縁の友人と会うことに。

自転車圏内なので、自転車で集合場所のデニーズへ。

都心に住んでいるとあたり前にあるデニーズだが、九州にはない。
一時期モーニングでよく使い、アプリ会員になりポイントも貯めた結果、山盛りポテトフライを100円で頼めるようになったのに…。

九州行ったら、デニーズの山盛りポテトフライ頼めなくなるから付き合えや、ということで会うことになったのだった。

こうやって、少しずつ、関東を離れるんだな~と実感していく毎日だ。


早速、本題に戻ろう。
「報告の流れ」に沿えば、次は②自立生活運動に寄生/依存してきた7年間と博士論文を扱うことになっている。

自立生活運動とは、要約すると1970年代から重度身体障害者を中心として、施設と家庭以外の生きる場を求めて展開されてきた制度要求の運動だ。

この説明だとあまりにも多くのことを捨象してしまう気がしてならないが、そんなことを詳述していると横道にそれてしまうので割愛する。

そうした自立生活運動と連動する形で発展してきたのが、運動理論としての障害学だった。

自立生活運動や障害学との出会いは、いまから10年前、ぼくが20歳の頃に遡る。

当時、恩師がやっていた「障害学」の講義を受講していたぼくは、「障害は社会的に作られている」という考え方をとる「障害の社会モデル」の考え方に強く惹きつけられた。

当時、自分なりに「不登校問題」について制度などの側面から学んでいた自分にとって、「障害が社会的に作られていると言えるなら、不登校も社会的に作られていると言えるじゃないか…!」と直感し、わくわくした。

それから、恩師と個人的に彼の研究室で会うようになり、障害学関連の著作を読んでいくなかで、自立生活運動から滲み出る泥臭さや人間臭さ、運動の実践者たちの生き様や哲学、思想に強く惹きつけられるようになった。

特に影響を受けた著作をいくつか挙げるなら、『こんな夜更けにバナナかよ』と『生の技法』になるだろうか。

『こんな夜更けにバナナかよ』の主人公、鹿野さんの生き様にはとても影響を受けたように思う。後年、筆者のノンフィクションライターの渡辺さんと仕事というか運動を通じてお会いできたのがとても嬉しかった。

『生の技法』は、岡原正幸さんと立岩真也さんの論稿がよかった。
迷惑を問い返すとか、コンフリクトは対等な関係に向けたコミュニケーションだとか、家族における愛という制度について…、どれも当時のぼくが生きるうえでどれだけエンパワメントされたことだろう。

そうやって、障害学系の本に触れていたら縁もあって障害者福祉の支援者になっていき、気づいたら自立生活センターの介助者/介護者になっていた。

障害者福祉のキャリアは10年目で、自立生活センターに携わるようになって8年目だろうか。けど、ふりかえればあっという間だったように感じる。

ぼくは恩師という重度障害者の父親という人物を通じて、障害者運動と出会い、その道に入って行った。

大学在学中、障害者運動の中心人物の介助者をやっていた障害学の若手の先生がいて、その方にとても印象に残る言葉をかけてもらった経験がある。

「その時、一番心を惹きつけられるものに従って動けばいいんじゃない」

障害者運動と出会って、「もっと自分が感じたり実感していること、想いを言葉にしていいんだ」、「コンフリクトは恐れなくてもいいんだ」とか思えるようになっていって、出会いも広がり、自分は格段に生きやすくなった。

自立生活センターに務めるようになってから3年間は、半分当事者かな?というような人しか入れないとされる社員寮に住まわせてもらった。

ライフライン込みでも格安の条件で住めたので、とてもありがたかった。
当時のぼくはとても不安定でよく介助を休んでいた。
ひどい時は当日にドタキャンをしていた。まさに半分当事者…。

そんなぼくでも事業所は、人手がいないのもあるとは思うが、捨てずに使い続けてくれた。うちの事業所は、もともと自立生活運動の中心人物だった方の影響もあって、当事者と介助者が互いの生活や命に責任を持ちあうような、言い換えると、お互い様な感覚で当事者と介助者の間にも相互扶助な気分や風土が根付いていた。

ぼくは、そんな事業所の雰囲気に大いに助けられた。恩師に紹介してもらった自立生活センターに勤め、経済的自立も果たし、自信にもなった。

けど、社員寮にいた頃、ぼくはしばしば、自立生活運動を牽引してきた今は亡き運動の中心人物たちに、「で、お前はどうするの?」と問いを突き付けられるような感覚に見舞われた。

自立生活運動の先達は、なにもないところから国際的な流れの後押しもあって、地域で支援付き自立生活をするための制度を現に作り、獲得してきた。

ぼくは、その運動を作ってきた人たちのお蔭で、生活できている。
ぼくは大いに自立生活運動に依存している。あるいは寄生している…。

当時から、ずっとそう思っていた。
あんなどうしようもない、ほかのところだったらクビになっていたであろうありさまのぼくを文字通り拾ってくれた。それでも使い続けてくれた。育ててくれた。なにより、介助者としてかかわる当事者たちは、こちらのことをとても気遣ってくれる。

当時、入っていた重度身体障害がある自立生活のベテランの方に「やそら君は大卒で優秀なんだから、事業所のコーディネーターとかもっと責任あるポジションに就きなよ」と言われたことがある。

ぼくは悩んだ。大いに悩んだ。
自立生活運動は好きだ。とても影響を受けている。
どれだけ、エンパワーされたか…。とても大きな恩がある。

けど…、運動の様子を見ていると、障害当事者でない介助者が介助者自身の抱える問題を自立生活運動に投影して、運動をしているように見える場面がいくつもあった。そういう介助者側のエネルギーが、自立生活運動全体に寄与した部分も確かにあるだろう。

けど、ぼくはそういう形で自立生活運動にはかかわりたくないと思った。
ぼくが、いまのまま自立生活運動に深くコミットするようになったら、絶対にそういう混同が生じる。それはいやだった。

それなら、見田宗介が『社会学入門』で言っているような「自分にとって本当に大切な問い」を探究したいと思った。

そして、ぼくをさらに運動の中心へと誘った当事者やぼくにイメージの中で「で、どうするの?」と問うてくる運動の先達たちにも、「とりあえず、自分にとって本当に大切な問いを探究したいと思います」と応答した。

だから大学院に入った。
そこで、精神障害分野の修論を書き上げた。

とりあえず今日はここまで。
明日は「博士論文」の部分に言及したい。

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