関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語⑱
おはなし会の終わり、⑰で出てきたシングルマザーの方に、地域活動支援センターのピアスタッフであるところのKさんが「よかったら気軽にお話にきてください」と声をかけていた。彼女は、切迫した状態にあっても、その危機感に突き動かされ自ら動けたから、社会資源に繋がれたのかもしれない。
家路に向かうなかで考えたことがあった。
一つは、研究と関連すること。一つは、自分の当事者性に関すること。
研究と関連することで思ったのは、「やはり、当事者活動だからって、別に当事者だけでがんばらないといけない訳でもないし、恒常性や組織活動の安定性を高めるには、当事者以外のアクターが関わっていた方がいいんだろうな~」ということだった。
ぼくの大学院における専門は、当事者活動だ。
当事者活動は、当事者の当事者による当事者のための活動などと呼ばれる。
けど、別にそんなに「当事者、当事者」しなくていいじゃない?
セルフヘルプグループとか、研究と実践を通して「当事者尊重」を謳いながら、その実、実効支配に向けていろいろやってきたじゃない?というのが自分の研究的立場。
「当事者活動」に対する「専門家支配」には批判的だけど、かと言って別に過剰に排除する必要もないよね。必要に応じて、もっとフラットにお互いにお互いの長所を活用し合えばいいじゃない?というのがぼくの立場。だから別に変に「当事者が主役だ!」とか、「これからは当事者の時代だ!」とかいちいち喧伝しなくていいじゃない?言うにしても、あなたが言う「当事者」は具体的にどのような「当事者像/概念/という存在」を前提しているのか、明らかにしなさいよ。もっと言えば、そこに関わっている専門家や支援者像も明らかにしましょうよ~っていうのが、ぼくの修論の主張のひとつだった。
そんなぼくなので、自分が参加した当事者主体のおはなし会の雰囲気や構造がいいな、と思った。精神保健福祉センターという公的機関の後援で、会のはじまりの挨拶には、センターの職員もいるが、会がはじまると、ピアスタッフとして就労している当事者が司会役になり、専門職である職員は退席し、ピアスタッフが進行する。
マンパワーなどの関係で、そのおはなし会は年に4回ほどしか開催されておらず、そこに関しては、参加者からもしきりに「もっとこういう場があればいいのに」というニーズが語られていた。
こういう場面で、「本当に必要なら自分で作ればいいのに」とか内心どこかで思ってしまうのが、きっとぼくのよくないところなのだと思う。そしてぼく自身が、不本意ながらも「強い当事者」たる所以なのかな、とも。
「当事者主義」や「当事者主権」にもバリエーションがあるのだろう。
精神保健医療福祉分野のそれを今後は実践も踏まえて探究したい。
当事者性に関連することだと、まあ、もうおはなし会に参加して、自分の気持ちの動揺には自覚あったし、その上で言葉を選んで、ちゃんと自分の問題の投影をするのではなく、目の前の人に向けて、ちゃんと伝えたい言葉を発信できたので、そこは満足していたけども…。この経験を福岡のお母さんに話したいなと思った。また、その場にいたピアスタッフのKさんとも改めて話したりしたいなと。
今後、ぼくは精神保健医療福祉分野で働く予定だ。そこでたくさんのいろんな人の経験を聴くことになるだろう。そしたら、またこういうことがあるかもしれない。だったら、ほかのこの分野における先輩方がどんな風にそれらに対処してきているのか、その方法などを聴きたいと考えたのだ。
福岡のお母さんは、後日、ぼくの報告を受けて、それはまたおもしろい体験をしたね~と第一声をあげた。一番印象に残っているのは、「深い共感とトラウマのフラッシュバックは紙一重だよね」という言葉だった。
そうか、なるほどと思った。
ほかにも自分の経験は暴露療法のアプローチに近いのか、だとしたら、暴露療法は結構過激だとかそういう話もした。あと、当時、リカバリー運動の推進者の文章を読んでいて、その人が病を抱えながら心理士になろうとしていた時代には、自分の病気を隠さないといけなかったので、実習で精神科病院の閉鎖病棟に入った際、自身の経験がフラッシュバックして大変だったけど、それでも人に言えなかったというエピソードがあったので、「そういう先達のお蔭もあって、自分なんか、全然そんなこと気にせずおおっぴらにいろんなことを周りの方々と話せる環境があるので、それは本当にありがたいな~って思いましたね」というような話もした。
どのような立場であれ、「ピアスタッフ」になりやすい環境は、昔よりも全般的に整備されているのかもしれない。
これから福岡市内の精神保健医療福祉分野で働いていくなかで、5月の時のようなことはいくらでも起きるだろう。それは福岡のお母さんが言うように、「トラウマと深い共感の間」のようなモノになっていくかもしれないし、そのような反応もまた自分のなかから出てくるのかもしれない。とは言え、それは自分ではコントロールできない問題だ。けど、そういったことについて話せる人がきっとこれからたくさんできるだろうと思っている。
ぼくは基本的に楽観的なのだ。