関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語㉙

㉙では、6月21日に訪問した事業所のことを書いて行こう。
その事業所はIさんが運営する事業所だ。

余談だが、奇妙なことだと思ったことをメモしておきたい。
はじめてぼくがその事業所に行ったのが2月3日だった。その日は、Iさんに今までの実践の経緯などを聴いてみたいな~と思い、12月の大会の打ち上げの翌日に会いに行ったのが最初。その後、就労先の候補として見学に行ったのが6月21日、まさか、4か月前には自分が働く現場の候補としてその地にまた足を踏み入れるなんて思ってなかったよね。

で、7月30日の引越し後、働くにあたって正式?な面接をしたのが8月3日、初めて足を運んだ日からちょうど6か月後だった。で、明日、8月21日から働く予定。働くつもりで見学に行った日からちょうど2か月後。すべて狙ったわけではなく、本当にたまたまで、いまこれを書くために記録ノートを読み返していて、この事実に気づいてさすがにびっくりしている自分がいる。

6月の見学は、まだ正式に働き出すことが決まっているわけでもないし、いろいろやりづらかった。居心地が悪いのだ。精神保健福祉士の実習で就労Bに行った時のことなどを思い出した。

自分の立場がとてもあいまいでその場にいるのが申し訳なくなるような。利用者の方にとっての居場所だろうに、よくわからない自分がその場に居てしまうことへの申し訳なさというか、その人たちの居場所を荒らしていやしないだろうかという気分。

そんな気分をひきずりながら、申し訳程度に部屋の隅の方に座っていたら40、50代の男性に話しかけられた。思いの外、話が弾んだ。

その男性はもともと某有名ファッション店の店長をしていたこと、関東などで勤務もしていたので、自分が関東で住んでいた地域なども知っていた。躁鬱病になり働けなくなったこと、それでも自活したくて、ピアスタッフになるための研修を受けたこと、最近の医師やカウンセラーとの関係などについて、ほんとうにいろいろ話した。

ぼくも思わず話していた。
自分ももともと躁鬱の気があって精神科に10年近く通って炭酸リチウムを飲んでいました。いまは通わなくなったんですけど、で、研究みたいなこともしてます。12月にピアスタッフに関する全国大会があったんですけど、それがきっかけで福岡のお母さんにお声がけいただいて、福岡に引っ越すことにしたんですよね~などなど。

物件探しを翌日に控えていたぼくは、結局、「自分は生活保護なんだけど、そんな自分でも駅前の不動産屋すごくいい対応してくれたよ」というアドバイスをもとに、その人が勧めてくれた不動産屋で物件探しをした。

話をしていくと、その人はピアサポート実行委員のひとりだとわかった。そういえば、名前を聴いたことがある。ぼくは妙にテンションがあがった。

「ぼくらニアミスしてたんですね。ここで会う前に、会議で会っててもおかしくなかったみたいです!笑」

その事実は、なんかぼくをすごく喜ばせた。言い方は悪いが、福祉施設などではなく、早く、会議の場でその人とまた会いたいなと、強くそう思った。

ところで、その方はぼくにとてもおもしろい質問をなげかけてきた。

「やそらさんは、いつから自分が精神病だと自覚しましたか?」

まず、おもしろい言い方をする人だな~と思った。修論で全国「精神病」集団という当事者団体も扱ったぼくにとって、「精神病」という響きは、まずとても社会に対して闘争的な意味合いを帯びた言葉としてあった。

しかし、そこまで話を聴いてきていて、彼が「精神病」という言葉に込めているニュアンスを自分なりに慮った。それはきっと、「発病するまでは、思い通りにある程度生きていくことができていたのに、躁鬱病の発病によって、自分の人生は病によって大きく挫かれてしまった。自分で働いて生きていくこともできなくなってしまった」。そのように、彼自身の人生を大きく変えてしまった、まさに「精神に関する病」。だから「精神病」。

そのような理解、解釈の下、ぼくは誠実に応答しようと努めた。

やっぱり高校時代から不登校で、波とかあったので、あの時から躁鬱的な傾向はあったと思うんですよね~。その後の大学生活は本当に乱れて…。

しかし、ぼくのポジショナリティや実感は彼とはかけ離れているというのが実際のところではあった。ぼくは別に自分を「精神病者」だとも思ってないし、「精神障害者」だとも思っていない。手帳もとらなかったし。あくまで、精神科ユーザーなのだ。それはもともと精神保健医療福祉の利用者である、あるいはであったという意味でのそれだ。

手帳を取らなくては、公的な意味では「精神障害者」としてカウントされない。たしかに、自分自身の救出や救い出すプログラムの一環として、いわゆる「病識」を活用する時期が自分にもあった。しかし、「精神障害者」とか「精神病者」というようなアイデンティティを内面化したことは一度もない。それはきっと、自分自身の中にある精神障害に対する差別や偏見の念から来ているというのも認めざるを得ないところもある、と正直に記したい。

しかしより正確に言うならば、自分はあまりにも「病んだ人間関係」の中にあった。根を下ろす土壌が悪かった。我が家をして、上の兄弟は自嘲気味に「腐海」だと表現する。呼吸をすれば、たちどころに肺が腐るあれだ。

汚れているのは土なんです…、とぼくも訴えることしかできない。

病んだ人間関係の中で、安定した情緒を発達させることができなかった。だから、良い関係を求めてさまよい歩いた節もある。そうやって、良い土壌を求めて、自分が根を張る場として福岡に流れ着いた感も正直あると思う。

物心ついた時から、死にたい気持ちがあるのが当然だと思ってたし、むしろ25歳以降、そういう気分や気持ちが亡くなっていったことのほうがよくわからないというか、未知との遭遇だった自分にとっては、「鬱は甘えだ」という気分も根強いように思う。理解ができないのだ。あと、自分の人生における経験や苦労などを「精神障害」や「精神病」などという言葉で表象できると、とても思えない。自分の根っこは虐待サバイバーで、それと関連して、さまざまな問題が順調に生じていった。しかも世代間連鎖という根深さもあった。インターセクショナリティだよな~という実感をもつぼくには、それらのラベルはあまりにも物足りなかった。

まあ、今後支援者として現場に入って行く上では、そんな自分自身のあり方とも否が応上でも向き合う羽目になっていくのだろうけども。

とにかく、「精神科ユーザー」という名乗りは、この分野における当事者のあり方として、かなりフラットなものだと考えて政治的に選んではいる。修論でも触れたが、あらゆる名乗りと名づけは政治性をはらんでいるのだ。

なので、人から「精神病」と名指しされた時、ぼくは同時にビックリもしていた。あくまでその人の文脈における言葉として尊重したが、自分自身がより闘争的で余裕のない時期だったら、より過敏に反応していたかもしれないな、と思った。3月に自分の闘いの終結を知り、腑抜けて余裕があったからこそ、「精神病」と言われても、向こうの文脈に沿ってコミュニケートできた、そんな風に自分自身としては当時のやり取りを認識している。

ああ、早くまたあの人と会議の場で会いたいな~。
明後日、会えるといいな。

ほかにも少し知的障害が入ってそうな人と一緒にWiiをして遊んだりして過ごした。かかわりが難しいと思われているのか、自分がふつうにその人と楽しくゲームをしている様子をみた事業所の責任者の方が、やそら君ありがとうねなどと声をかけてきたりした。

5月の飲み会の場に来たIさんの事業所に努める青年を覚えているだろうか。
ぼくはその人懐っこい青年のことを覚えていて、少し話聞けそうなタイミングをとらえて、二人で話す機会を作った。

「やっぱり、一対一の現場でずっとやってきたから多対一の現場のやり方とか雰囲気とか、自信がない」とか、「勤めて数年になると思うんですけど、どんな風に工夫とかしてますか?」とか訊いてみたのだ。

すると彼は嬉しいことを言ってくれた。

やそらさんが話し込んでいた50代の男性は、少し気難しいと思われていて、ここにも馴染むか微妙な感じもあったんですけど、自然に話し込んでいて、すこし離れたところから見ていてすごいと思ってました。あと、一緒にゲームをやっていた人も、なかなかみんなかかわりに苦労してるんですけど、気づいたらやそらさん、一緒にゲーム楽しんでたので、驚きました。やっぱり一対一はすごく強いんだな~って感心しました。

最後に極めつけを言われた。

「やそらさん、今後うちで働くことになるんでしたら、一緒に働けるの楽しみにしてますね!」

思い出すだけではにかんでしまう。
くすぐったくなるような、照れ笑いを浮かべてしまう。

Kさんに引き続いて、ぼくのことを待ってくれている人がいる。

明日、彼や50代前後の男性に会えるのが楽しみである。

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