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今日も我が家は「母と父を見送くって・・・」それからの私


皆様「おはこんばんちは」
鈴丸 カエル🐸です。

お世話になった施設から病院に入院しておよそ半年間、本当に苦しい毎日が続きました。

食事が取れない父は点滴で生かされて徐々にミイラの様になっていくのでした。

家で面倒が見られ無い限り病院は治療する所だという事なので点滴はその一つであるということなのでした。

それは父が亡くなってから知ったのです。

点滴もまた延命の一つであり主治医は黙ってそれをしてくれていたのです。

人が死ぬということは大変なことなのだと思いました。


そして父の葬儀をだして全ての事が終了した時、「ああ、もう病院に行かなくて良いのだ・・・」と変な気持ちだった。

何事もない日を送れるのは幸せだと思っていた日がやっとおとづれたのです。

ただ夕方になるとたまらず習慣の様に飲み始め父の葬儀から1月後ぐらいに自家中毒の様な症状にみまわれて友人に紹介された病院で血糖値が異常に高いと入院することになるのでした。

私は初めて家族から離れて上げ膳据え膳の夏休みの様な日々を送る事になったのです。

ここで私は自分はなんて幸せなのだろうと病院に管理されているのが嬉しかったのです。

食事は味気ないものでしたが人が作ってくれたものは全て美味しくてたいらげるので先生は残していいんだからと言うのでした。

散歩や運動と病気の為の勉強とインシュリンの注射をすれば後は自由だった。

でも6人部屋で出会う人は皆,素敵な先輩方なので人生のアドバイスを頂き励ましてもらうばかりなのでした。

「人生なんてアッというまよ!ぼやぼやしているまに終わってしまうのよ。」

「結局、どんなに兄弟が居たとしても親を看取るの一人なんだは、いいじゃないそれで・・・」

私は初めて自分の事だけ考えれば良い事に退院したら何か好きな事をしてみようと考えていた。

ただ、散歩に出た時に寄る近くの道の駅の新鮮なお野菜やお花を見ると家族に食べさせたい気持ちになるので、ただ申し訳なく思うのでした。

とにかく家族がいなければ乗り越えられなかった事、もし私が先に死んで父を残す事になったらと不安だったのでやっと安らげたのでした。

夏の終わり、遠くに上がる花火を同じ部屋の皆様と観る事ができて、誰かが「幸せだなぁ。」と言うと皆様も同じく「幸せだねー」と言うのでした。

それぞれに思わしくない病気を抱えているのだ・・・ 

それぞれの方とお別れして退院していくのを見送り最後の一人になり、私の夏休みは終了したのでした。


病院を出て小川の辺りを散歩していると私の細胞の一つ一つが喜んでいる感じがしていました。

夏が過ぎてゆくツクツクボウシが泣いてる。


まず退院できたらやりたかった事をやり始め何年もそれこそ30年近く待った、区画調整が動きだしワクワクしながら準備に取り掛かる事が出来たのです。

そしてしばらく会う事が出来なかった友人達とも再会して旅行や食事会に行く事が出来て嬉しかったのです。

中でも子供達が幼稚園の時に一緒だったママ友の地方に住むお母様が移住して来ているのを聞くと尋ねたのした。
以前にいつも娘さんの所に来ると彼女が忙しいので彼女の変わりに一緒に出かけたり美術館巡りなどをしていた。「おばぁちゃん」と私も呼ばせていただいておりました。

彼女は博識が高く一緒に居て楽しくて話しの尽きない方でした。

友人である彼女より気心が知れた存在になっておりました。

その彼女は92歳になっていてシルバー大学で最高齢であると話題になっているのでした。

しばらくぶりで会う彼女はかくしゃくとしてとても92歳だと感じられないのでした。




お互いに久しぶりに再会を喜びあい前の様に出かけておりました。

しかしある時、彼女は右の首から肩に痛みを抱えていて昨晩は寝られなかったと言うのだった。

以前に住んでいた地域では、そばにあった病院の医者に注射をしてもらい痛みを消していたとその医師に連絡をして相談し東京の病院を紹介してもらい、そこからまた獨協医大に紹介状を出してもらったので連れていって欲しいと言うのだ。

そのプロセスと労力を思うとよく一人で出来たなと思うのです。

もちろん、娘さんは知っているのか聞いたのです。

娘さんはストレッチの先生をしていて体の事を良く研究しているし、むやみに痛み止めなどの薬を使うのを嫌っている事を私は知っていた。



おばぁちゃんは娘に話しはしたが、反対され続けていて話しが進まないので東京(息子さんの所)に行った時にその関連する病院で相談して獨協への紹介状を書いてもらったと言うのだ。

「そんな薬を使うなんて恐ろしい」と言われたらしいのだ。

「本当に痛いのよ・・・その注射を打つとしばらく楽になるの」と

だが、しかしなのだ。

92歳の彼女の痛みも必死なのが理解できる。

「もし死んでしまっても構わない!」とまで言うのだ。


まるで、父と母のことの再現なのでした。

いったい私は何を見せられているのでしょうか?

しばし考えて「もう一度、彼女に相談してみれば?」と言ってみたが「無理だ、助けて欲しい」と言うのでした。

連れて行くのなんて簡単だ。

仕方なく私は彼女を獨協医大に連れて行くことにした。

そして彼女は娘に内緒にしておいて欲しいと言った。

正直、良くないと感じていたが関わった以上、しょうがないと諦めて、その場その場の感覚で決めることにした。

そして結果は肩の上の方に石灰化したものがあり、それが首の神経に触り痛みの原因になっているのかと説明を受けた。

そしてペインクリニックへ紹介されたのです。

おばぁちゃんは薬の事をよく理解している感じで医師と詳しく話しをしているのでした。


私は彼女(娘)が怒るのを承知で今日の出来事と医師の説明とレントゲン写真の写しと今までの経緯を携帯LINEから長文と共に送る事にした。

そしてそのペインクリニックに貴女が無理なら私が連れて行くとメールを付け加えた。

しばらくして、違う病院に連れていくと連絡があった。

多分、怒っていたと思われて、でもそれでおばぁちゃんが楽になったならいいやと考えた。


その時、私の鍼灸師の娘が「どんなに悪い薬だろうと誰かが誰かの為に作ったものだから適切な使いかたをすれば大丈夫なのでは」と言った。

本当にそう思うのです。否定するばかりでは解決出来ないと思うのです。

その時はそれで終了してその後何事もなかった様に薄れて行くのだったが・・・



人と人は付き合いが長くなるほどにお互いのいい所もダメな所も許しあい、認め合っていくものと思っていた。

良かれと思ってした事も裏で利用されバカにされている事を知り・・・
何処かいつも一方的でバランスが取れないでいる事に不安定になって、この後、どうしても私が納得出来ない事件が起こり、全てを無くしてもいいと彼女達とのお付き合いを残念ながら終了させたのです。

もう、おばぁちゃんと彼女の間に入り見たくない事を見せられ続けるのは、もういい加減限界なのでした。


この後、コロナ禍になり出歩く事もなくなり私は家族を中心にすることで楽になったのでした。

全ては私の距離感が招いた事と反省しました。

結果、やはり幼い頃から私は人間関係を上手く構築出来ない人だと感じ、それもしょうがないと自分を許したのです。

本当に大切な人は少数で良いと思いました。

これで良かったのだと思うのです。

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