切なさの先にあるもの
こんばんは。
暫くnoteを放置していたので、久しぶりの投稿です。
書きたいことがあるけれど、それが、具体的な言葉にならず、投稿を躊躇っていました。
上手く仕上げられないけれど、取り敢えず、文章化して、自分と向き合う事にした。
お彼岸が過ぎ、亡き両親を思い出し、悲しみが癒えず、切なさが押し寄せてくる。
切なさの海に深く飲み込まれてしまい、私は、身動きが取れなくなっていた。
きっと、この悲しみや切なさは、乗り越えなくてはならないことなのだろうが、なかなか、そうはいかない。
切ない、という感情は、苦手だ。
悲しみや苦しみは、ストレートな感じがする。
だけど、切なさは、胸が締め付けられる感じがして、苦しいのだ。
私は、悲しみや苦しみの先に、喜びや楽しさがある様に、切なさにも、何かがある様な感じがした。
切なさのその先にあるものは、何だろうか?
悶々と考える中で、一つ、見えてきたものは、希望、だった。
自分でも、不思議だった。
今の自分の人生に、希望なんて、持っていなかったからだ。
人生は、辛く苦しい。だけれど、それを乗り越えて行かなくてはならない。
課題を乗り越えた先にあるものは、きっと、幸せだと思う。
そうじゃないと、人生、やってられない。やさぐれてしまう。酒持って来い!と言いたくなる。(私は下戸です。)
特に、特別なものが無くても、幸せは、自分の心次第で、しゃしゃり出て来てくれる。
苦しさを乗り越えた自分に喜びを感じれば、それは幸せだ。
切なさの先に見えてきたものは、正確に言えば、優しさ、だった。
けれど、私はそれを、希望と捉えた。
何故ならば、私には、優しさ、が足りないからだ。
キツイ性格を、何度も母に窘められた。
窘める母に噛み付いたりして(←言葉で、ですよ。)、負傷者が増える大惨事の渋滞を起こしたりしていた。
私は、正義感が強すぎて、曲がったことは大嫌い。
心臓を一突きにする様なことを言って、相手を傷つけたりした。
私は、間違っていない。言っていることは正論だ。
だけれど、やっていることは、正しいのだろうか?
人が泣く様なキツイことを平然と言い放つ、果たして、それが、正義なのだろうか?
勿論、司法関係の方は、人を裁くのが正義だと思う。
だけど、法関係ではなく、日常生活に於いて、人に対して、優しく接することは、正義なのではなかろうか?
人を裁くことだけが正義ではなく、利他愛が正義なのではなかろうか?
私には、優しさが、足りなかったんだ。人に対して、愛が足りなかったんだ、と気付いた。
切なさを乗り越えた先にあるもの、は、切なさを乗り越えたからこそ優しく出来る強さなのだ。
切なさは儚いから美しいのではなない。
その切なさに彩られた奥に秘めた強さが美しいのだ。
攻撃的な人が強いのではない。
弱い犬ほどよく吠える、と言うけれど、私は弱い犬だ。
本当に強い人というのは、優しさを内在させた心が美しいことを言うのだと思う。
私は、何に勝とうとしていたのだろうか?何に負けたくなかったのだろうか?
結局、私は、私に負けていたのだ。
私は、過去に、酷いいじめを受けていた。
いじめられると分かっていて毎日登校するのが、地獄だった。
負けたくない!という一心で、私は、私を、武装化させた。
弱さなんか見せない。
私に優しくしてくれる人なんていなかったのだから、私は、自分で自分を守ることに必死になっていた。
それで出来上がったのが、正論で人をぶった斬る、ドギツイ性格だった。
そして、キツさを撒き散らして、屍の山が出来上がった時に、私は、私が本当に正しかったのだろうか?と思った。
贖罪の気持ちでいっぱいになる。
でも、今は、在りし日の父と母を思い出し、切なさで胸が押し潰されそうになると、私が人に対して優しく接することが出来る様になる希望を孕んでいる気がして、前向きに生きていける気がする。
きっと、それは、両親が願っていることだと思う。
拙い文で申し訳ない。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。